葵むらさき小説ブログ

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DV幽霊 第3話(全20話)

 実際この理不尽さ加減というのはどうなのだろう。

 例えば、天気だ。

 古代の人は、雷が落ちたとか、日照りが続く、逆に異様な降水量だ等といった「穏やかならざる天候」を、神の、自然のスピリットのようなものの怒りと捉えていた。

 供え物をしたり貢物をしたり生贄を捧げたり舞いを舞ったりイベントを開催したりして、彼らはその怒りを鎮め安寧を求めたりした。

 それと足と、何の関係があるのか。

 つまり私は、蹴られながら、こいつは天気と同類なのではないのか、と思っていたのだ。

 いや、違う。

 逆だ。

 私は、天気というのはこの“足”と、同類なのではないか、そのように思ったのだ。

 天気の左右というのは、気温だとか気圧だとか大気の移動だとかに拠る、物理的理論に適った現象だ。

 と、一般的には言われている。

 でも、どうして?

 外国の映画の中によく出てくるセリフだが、「神の怒りだ」というのが非物理的な“気のせい”なのだとしたら、この足の現象だって“気のせい”ということになる。

 こんなに、痛いのに!!

 いや前にも述べた通りさほど痛くはないのだが、異様に執拗で面妖だ。つまり、不快で不愉快で、理不尽だ。

 だが。

 実はこの足のやらかしていること、これにも何か、物理的根拠、論理的法則、そのようなものが根幹にあるのではないのか。

 つまり私は、蹴られるべくして蹴られているのでは、ないのか。

 

 ごつ。

 ごつ。

 ごつ。

 

 足が、私の腰を蹴る音だけが、私の耳に届いていた。届きつづけていた。

 舞いでも、舞ってみようかな……

 古代の、鵜を小脇に抱えたシャーマン的存在の女が、神勅を民に伝えんがため片足を上げ鵜を持っていない方の手を高く差し上げて踊っている姿が、ふと脳裡に浮かんだ。

 あんな風に……なんか、鳥抱えて……ぬいぐるみじゃあ、効果ないんだろうな……なんか、カラスとか捕えられないだろうか……罠とか仕掛けて……

 そんなことを考えつつ、そして腰を蹴られつつ、私はその日も眠りに落ちていった。

 

 カラスは、無理だろう。

 そうして翌朝目覚めた時、最初に私はそう思った。

 まだ十分に覚醒したという自覚もないうちから、その思いだけがはっきりと私の脳内に言語として具現化した。

 あいつらは、狡猾で凶暴だ。

 それに捕まえるとしたら、捕まえ得るとしたら、その場所はゴミステーション近辺に限られるだろう。

 あいつらは基本、ヒトの生活区域内で効率よく餌にありつくことを生業としている生き物だからだ。

 そしてもし本気でカラスを捕えんがためゴミステーションに捕獲網など持って待機していたとしたら、私は恐らく、通報されるだろう。

 しょっ引かれる破目に陥ること請け合いだ。

 無理だ。

 私には、舞いは舞えない。

 そう結論づけたところで、はじめて私はハッと目を見開き、朝が来て自分が布団の上に置きあがっていることを知ったのだった。

 

 出勤途中、通りかかったゴミステーションの近くにあるブロック塀の上に、カラスが止まっていた。

 私は何故だか照れくささに似たものを感じ、通り過ぎざまちらりと横目でその鳥を見た。

 カラスの方も、何か後ろめたさを感じているのか、すっと顔を横に向けた。

 

 お前を抱いて、舞いたい。

 

 突如そんな科白が脳裡に浮かび、その直後私は肌が粟立つのを感じた。

 私は、何か常軌を逸した状態に陥りかけているのでは、ないのか。

 あの、足のせいで。

 気づくと私は、ゴミステーションのそばで茫然と立ちつくしていた。

 ゴミを出しに来た近所の五十代くらいの主婦が、ゴミ袋を提げたまま私を上から下まで凝視した。

 慌てて、逃げるように私は歩き出した。

 舞いのことは、忘れろ。

 歩きながら私は、心の中で自分に言い聞かせた。

 大丈夫だ。私は、常軌を逸してなどいない。

 だって、実際にはカラスなどまったく捕まえていないのだから。

 舞いも舞ったりしていないし。

 大丈夫だ。

 何か他に、方策を考えよう――足に対して。カラスにではなく。