葵むらさき小説ブログ

大人のためのお伽噺を書いています。作品倉庫: https://www.amazon.co.jp/%E8%91%B5-%E3%82%80%E3%82%89%E3%81%95%E3%81%8D/e/B004LV0ABI/ref=aufs_dp_fta_dsk

DV幽霊 第20話(了)

「終わりましたよー」

 熱田氏の声で、私は目を開けた。

 のろのろと起き上がると、最初に、玉の汗を浮かべて今にも気絶しそうに茫然としている森下氏の顔が目に入った。

 そんなに、体力を使ったのか。

 私には意外に思われた。

 経を唱えたり、あきみの兄貴に語りかけたりしているのは薄らぼんやりと聞えていたが、そんなに大変な作業だとは思いもしなかった。

 精神的重労働だったということか。

 それはそうだろう。

 なにしろ“浄霊”をしたのだから。

 それは確かに、簡単なものではなかったはずだ。

「お疲れす」森下氏は、心配そうに見つめる私に二センチほど会釈し、部屋の隅に歩いていった。

 森下氏の後ろにいた熱田氏の姿が、今度は目に入った。

「えーと、まず」熱田氏は、熱田スペシウムを放ち続けていたのであろう方の腕をさすりながら、私に訊いてきた。「あなたのお名前は?」

堺田篤司です」私は答えた。

「うん」熱田氏はニッコリと微笑んだ。「戻ってきたわね。自分自身が」

「え?」私は、眉を上げて訊き返した。

「あなたの脳みそはずっと、あきみさんのお兄さんに乗っ取られていたのよ」熱田氏は、私の頭を指差した。「よね?」森下氏に確認する。

 森下氏は汗を拭いているところで、タオルの下から片目だけ覗かせ、こくりと頷いた。

「そしてお兄さんは、その状態であなたに、制裁を加えていた――つまり足で蹴られているというイメージを、あなたの脳みその中に投影させていたと、そういうことよ」

「――すべて、幻だった、と」私は茫然と、呟くように言った。

「感覚とか知覚とかは本物だったはずっすよ。痛みとか」森下氏がタオルを首に巻きながら答える。「脳では実際に、足も見えていた。けど、本当には存在しないから、触ることはできなかった」

「それで、あなた自身は単なる操り人形として、自分の名前も、あきみさんの顔も声も、忘れさせられていたということよ」

「ていうか、記憶貯蔵庫から検索する権限を制御されてたんす」

「――」私は目をしばたたかせた。

「森下君が言うと、話が小難しくなるからいいわ」熱田氏が、彼女にしては珍しく眉をひそめた。

 森下氏は若干唇をとがらせながら、眼鏡をかけ直した。

「それで、時々お兄さんの呪縛が緩んだときに、あなた自身が目を覚まして、その隙間で今回の浄霊の依頼にこぎつけた、というわけよ。まあよかったわね」熱田氏は私の上腕をぱしぱし叩きながら、(恐らく)ねぎらってくれた。「ところで、あなたボーナス月はいつ?」それから熱田氏は唐突に問いかけてきた。

「……」私はすぐに答えられずにいた。「7月と、12月です」やがて、私は質問に対する答えを発することができた。

 私の内部に、脳の中に、現実世界というものが蘇りつつある。という実感が、不意に私の体を包みこんだ。

「そう」熱田氏は頷いた。「今回の件は、あなた自身の過失分の追加料金が発生するから」まっすぐに私を見ながら、特に他意もなくさらさらと事務的に話す。

 私の方はただうなだれて「はい」と神妙に答えるしかなかった。

 元カノ、あきみの、怯えた顔が脳裏に浮かぶ――

 だがもう、声は聞えてこなかった。

 あの声も、あきみの兄貴が聞かせていたものだったのか。

「まあ、後で請求明細を送るわね。それから、と」熱田氏は、今度は森下氏の方を見た。「森下君、あきみさんのマンションの位置、わかる?」

「……はぇ」森下氏が答えた。

 久しぶりに聞く、紛れもない森下氏の、やる気のなさそうな返事だ。

「明日にでも、スカウトしに行きましょう。彼女の能力、使えそうだし」熱田氏はてきぱきと計画を述べた。「君、まだ今月の勧誘ノルマ、達成してないでしょ」

「ぁぇ」森下氏は足元を見、消え入りそうな声で返事した。

 なるほど。私は小さく頷いた。

 ノルマ、か。

 霊媒師の世界も、なかなか大変なのだろう。

 森下氏に、少しだけ同情を覚えた。

 お礼というわけでもないが、何か私に、手伝えることがあれば。

「あの」私は思い切って提案の言葉をかけた。「私……あきみに、話してみましょうか、その……スカウトの、件」

 熱田氏と森下氏が一斉に私を見た。

 思わず、薄ら笑いを浮かべてしまう。恐らく卑屈を絵に描いたような顔をしているのだろう、今の私は。

「結構よ」熱田氏がきっぱりと答える。「ちょっと、あなたの携帯を貸してもらえる?」

 私は、がっかりしなかったといえば嘘になるが、ともかく指示の通り携帯を手渡した。

 熱田氏はそれをそのまま森下氏に手渡し、「消して」と言った。

「はぇ」森下氏が素早く操作をする。

 消すって……あ。

 私が気づいた時にはすでにそれは“消された”らしく、森下氏は私の携帯を私に差し出した。

 慌てて、アドレス帳を開く。「さ行」のところだ。

 確かに、里野あきみのデータはきれいに消されていた。

「あなたはもう二度と、あきみさんに近づかないこと」熱田氏はまっすぐに私を見て言った。「もうおわかりと思うけど、今回DVを行っていたのはあきみさんのお兄さんの“足”ではなく、そもそもあなた自身だったということ。今後あきみさんに近づいたら、今度は私たちが、あなたに“制裁”を加えることになります。いいわね?」

「……はい」

 私は頷き……というか深く頭を垂れ、承知した。

 制裁。

 その言葉の威力は意外なほどに強く、私はひとことで言えば

「もう、たくさんだ」

と、思っていた。

 兄貴の足蹴りにしろ。

 森下氏のミドルキックにしろ。

 熱田スペシウムにしろ。

 そう、なんといっても、なにをおいても、熱田スペシウムなんて、もう。

 たくさんだ。

「人と、神の中間の存在」不意に熱田氏はそう言い、私の部屋の天井付近をぐるりと見回した。「なるほどね。それだから、この部屋には、低級霊のようなものがまったく存在していなかったのね。あのお兄さんを、畏れて」

 私も、熱田氏に倣って部屋を見回した。

 私にとって、いつもの自分の部屋の光景であることに、なんら変わりはない。

「じゃ。お疲れさま」熱田氏は最後、ひときわ元気よく言葉をかけた。

 そして茫然と見送る私を振り返ることもなく、熱田氏と森下氏は、部屋を出ていった。

 部屋は真の意味で、静かになった。

 

          ◇◆◇

 

 それ以来、足は一度も姿を見せていない。

 その代わり、夜中寝ている時、ピシリ、ピシリという、いわゆる“ラップ音”が、聞えるようになった。

“低級霊”というものが、寄りつけるようになった、ということだろう。

 まあ、よかったじゃないか。

 妙な話かも知れないが、私は却ってその現象を、微笑ましいと感じるのだった。

 少なくとも、こいつらは私に“痛み”を、もたらしたりしないからだ。

“浄霊”――する必要も、特にないだろう。

 ピシリ。ピシリ。ピシリ。

 ああ。

 平和な、夜だ。

「理不尽」

という単語が、ふと私の脳裏に浮かんだ。

 理不尽――なにが?

 まったくもって、理にかなっている。

 理不尽なことなんて、なんにもない。うん。

 さあ、寝よう。

 おやすみ。

 

 あ き み

 

 うふふふ。

          〈了〉

DV幽霊 第19話(全20話)

「それで私にも森下君にも、見えなかった」熱田氏は続ける。「こういうのは、初めてだわ。こんなやり方をする霊には、初めて遭った」

「――」私はまた小さくうなずいた。

 なるほど、霊にも霊それぞれのやり方がある、ということなのだろう。

「お兄さんは、あっくんの……堺田篤司の身体の中に入って、彼のあなたに対する暴力を止めた」

 熱田氏が相も変わらず確認復唱している。

「あなたの力で」

 趣味か。このおばさんの。

「具体的に、どうやって?」

「兄の魂を、ダイモニアとしてあっくんに取り込ませました」あきみが、ますますもって低く答える。

「ダイモニア?」熱田氏が、立てかけた太い腕の横に顔を並べるように突き出して、問いかけた。「ダイモニアというのは? 霊の一種?」

「霊というか……人と、神の中間的な存在です」

「へえー」あきみの答えに対し、熱田氏はマンボウが口紅を引いたような口で感心した。「つまりそれが、あなたの“力”ということなのね」

「はい」あきみが、小さく頷く。

「お兄さんは亡くなったの?」熱田氏が更に質問する。

 あきみは少し間を置いたあと「はい」と、頷いた。

「そしてお兄さんは今、ダイモニアとして堺田篤司の中にいるというわけね」

「はい」

 あきみが答える。低い声だ。風邪をひいているのか。男のようだ。

「彼の中で、何をしているの?」熱田氏が質問する。

「今はただ」あきみはゆっくりと首を振った。「あっくんの中で、呼吸をしているだけです」

「呼吸?」

「アニマとして」

「アニマっていうのは?」

 あきみの口から次々と繰り出される専門用語に、熱田氏はついていけていなかった。

 やはりこのおばさんは、エセなのか。

 お祓い詐欺なのか。

「魂の……元というか、原料のようなものです」

「へえー」また、化粧マンボウの口が感嘆の声を発する。

 まったく、勘弁してくれよ。

 あんた、何屋なんだよ。

「じゃあお兄さんは、今現在はもうあっくんを止めたり、彼に攻撃したり、していないのね?」

「はい」

 嘘だ。

 私の唇だけがそう動いた。

 だが声は出てこなかった。

「その、はずです」

「単刀直入に聞くけれど、あなたがお兄さんを殺害したってこと?」熱田氏が訊いた。

「──」あきみは固まった。

「お兄さんがダイモニアになるためには、死ぬ必要があったってことよね?」

「はい」あきみがまた頷く。「兄は……ダイモニアと化すために、薬で自殺しました」

 しばらく、熱田氏もあきみも私も、ものを言わなかった。

「自殺」復唱したのはやはり熱田氏だった。「お兄さんが、自らそう、意図して」

「兄は、私の力のことを知っていたので、それで」あきみは再び震え始めた。「俺があつしをコントロールするから、あいつの中に入れろって」

「へえー」熱田氏の返答は、馬鹿かと思うほど普通だった。「そう。そういうことだったのね」それから彼女は、まぶしそうに目を細めて私を見た。

 何のことだろう。

 否、すでに私にとってはどうでもよかった。

 私は熱田氏の、たっぷり肉のついた喉元に向かって、両手を伸ばした。

 そうだ。

 今の私には、足だけでなく、手があるのだ。

 いい加減このおばさんの存在にも、辟易だ。

 こいつを始末してしまえば、後は好きなだけあつしを蹴り続けていられるのだ。

 呼吸しているだけだって?

 あきみ。

 お前、知らないんだな。

 そこまでの知識は、持ってなかったんだな。

 よし。

 兄ちゃんが、教えてやるよ。

 ダイモニアはな、割と完全無欠なんだよ。

 うん。

 自分でいうのも、なんだけどな。

 足で蹴ることだって、ほらこうやって、手で喉首を締め上げることだって、自在に操れるんだ。こいつの体を。

 だってこいつの中枢神経に、今俺は乗っかっているわけだからな。

 俺が動かしてやってるから、こいつはヒトとして生きて動いていられるわけだ。

 

「あつ……た……さん」

 

 苦しげな、男の声が聞えてきた。

 どこから、だろう。

 まるで、喉首を締め上げられているような、苦しそうな声……

 俺が、締め上げているのか?

 いや、違う。

 俺が締め上げているのは、熱田という中年のおばさんの喉首だ。

 男ではない。

 男……そうだ。

 この声は、あきみの声だ。

「あつた……さん……」

 あきみが、熱田氏を呼んでいる。

 よせ、あきみ。

 熱田というババアは、兄ちゃんが始末してやるから。

 もう、関わり合いになるのはよせ。

 この女は、穢れている。

「ん? 森下君?」

 熱田氏が、普通に答える。

 え? 普通に?

 どういうことだ?

 だって今、俺がこいつの喉首を、両手でもって、こう――

 それは、腕だった。

 熱田氏の、大根のような前腕を、俺の両手が締め上げているさまが、目の前に現れた。

 おお。

 その時の俺は、素直に率直に、感嘆――感動、していた。

 腕、だったのか。

 腕、だったとは。

 いや、なんてほど良い太さの、腕だろう。

 丁度、男の手のひらふたつ分の円周の。

 そう、普通の人間でいえば丁度、首くらいの太さの、

 前腕。

「どした? 森下君」

 熱田氏は腕を俺に締めさせたまま、顔だけ横に、あきみの方に向けて訊いた。

「この、人……おいだし、て、もらえます、か」とぎれがちに、あきみは男のかすれ声で答えた。「熱スペ……はずれて、今、すげ……パニク……てて」

「ああー」熱田氏がうなずきながら、サイレンのような声を上げた。

「熱田スペシウムをはずしたから、あっくんが見えるようになっちゃったのね。あきみさん」

「嫌だ。やめて」あきみは金切り声で叫んだ。「来ないで。嫌だ」

「はいはい」

 熱田氏は、私が締め上げている方の腕で持っていた数珠を、反対の手で取り上げ、あきみに向かってまっすぐに差し伸べた。

 そうしながら、何かの経を短く唱え、

「帰りなさい」

と、命令する。

 途端に、あきみの体ががくりと前のめりに崩れた。

 が、すぐに起き上がり、立ち上がったかと思うと、あきみは――

 俺の右側の耳の辺りに、目にも止まらぬスピードで、ミドルキックを見舞った。

 

 きいいいいん。

 

 強烈な金属音を聞きながら、俺はフローリングの床の上に倒れた。

 無論両手は、熱田氏の首――と思いつつ締めていた前腕から、ふりほどかれた。

 すぐに立ち上がろうとしたが、その時俺に熱田スペシウムが最大レベルの出力で――つまり今までとは比較にならないほど大量に、照射された。

 というか、ぶち当てられた。

 目に見えもしないその“なにか”が、ものすごい勢いと厚みでもって、俺の全身にぶち当たり、俺は再び床の上に、仰向けに転がされた。

 微塵も、身動きできなかった。

 天井しか、見ることができない。

 そして、その時俺の脳内にある言葉はただ一つ

 

「殺してくれ」

 

だった。

 この世のものとは思えない、苦しさが俺中を襲っていた。

 圧迫感、とか、倦怠感、とか、疼痛、とか、あと呼吸困難、とか、恐らく心室細動、とかも、とにかく体の異常さを示す症状がすべて混ざくり合って、俺に一斉攻撃をしかけてきているようだった。

 早く、開放してくれ。

 ここから、出してくれ。

 消してくれ。

 

「やめてよ、あっくん」

 

 あきみの声──本来の、鈴を鳴らすようなか細い声。

「痛いよ。やめてよ」

 そうだ。

 俺はあつしの中に入って、初めてあきみがこいつから受けていた暴力の真実を目の当たりにしたんだ。

 あつしの記憶を見て。

 顔中に痣を作っていたあきみ。

 こいつはその顔の記憶を鮮明に持っていた。

 持っていやがった。

 あきみの、泣きながら許しを乞う声の記憶も。

 俺はこいつをあきみの元から遠ざけ近づかないようにだけするつもりだったが、それを見てしまった以上到底それだけでは許せなかった。

 蹴り続けた。

 こいつの命が尽きる日まで、蹴っ飛ばし続けてやろうと思っていた。

 でも、もういい。

 もう、いいから。

 もう、やめますから。

 だから、消して下さい。

 俺を。

 

「どしたの、森下君?」遠くの方から、熱田氏の声が聞える。「早く、楽にしたげて」

 

 そうだ。森下。

 早く俺を楽にしてくれ。早く!

「あーと」森下氏の、気まずげな声が続く。「あきみさんのお兄さんの、名前確認すんの、忘れてました」

「もーう」熱田氏の、呆れ果てたという風情の声がしたが、それであっても熱田スペシウムの凄まじさ加減に微塵たりとも変化はなかった。

 ああ。

 プロだ。

 この人は。

 熱田スペシウムの、プロなのだ。

 なるほど、この人なら。

 俺を浄霊することぐらい、たやすいのだろう。

「もう、あれでいいわよ。あきみさんのお兄さん、で」

「はぇ」森下氏は例のだるそうな返事の後、風のように「すいません」と囁いた。

 薄く開いた俺の目に、天井を遮って森下氏の眼鏡の顔がぬうと現れた。

 それから更に、彼の顔を遮って彼の手が現れ、それは俺の額に当てられた。

 その向こうで森下氏は、別の方の手の人差し指と中指を揃えて唇に当て、ぶつぶつと経を唱え始めた。

「あきみさんのお兄さん」

 俺を呼ぶ。

 俺は、返事をしようとした。

 だがその希望は、かなわなかった。

 俺の唇もご他聞にもれず熱田スペシウムの支配下にあり、つまりはぴくりとも動かすことができなかった。

 眼球を動かすことも、瞬きをすることも、できなかった。

堺田篤司さんの体から出て、行くべき場所へ行ってください」

 森下氏はそう言ってからまた経を唱える。

 少しずつ、俺を締め付けるものが――というか絞り上げるものが、緩んでくるのがわかった。

 ああ。

 いいぞ。

 この調子だ。

「もうそこは、あきみさんのお兄さんのいる場所じゃありません」

 うん。

 そうだな。

 もう、こんな所にいなくても、いいじゃないか。

 もっと明るくて、広くて、空気のうまい場所が、あるはずだ。

 居心地の好い、場所が。

 どんどん、体が軽くなってくる。

 もう少しだ。

 瞼が震え、俺は目を閉じた。

 閉じることが、できた。

「あきみさんのお兄さん」森下氏が、また俺を呼ぶ。

 なんとなく、それが“最後”だという感じが、した。

「楽に、なってください」

 はい。

 そうします。

 次の瞬間、俺の体はすべての呪縛から解き放たれるかのように、重量と質量を完全に失った。

 

 あ き み

DV幽霊 第18話(全20話)

「あっくんは」熱田氏は質問を続けた。「今も、あなたを傷つけ続けているの?」

「……」森下氏は、また顔をくしゃっとしかめた。

 あたかも、今まさにあっくんに殴られたかのような表情だ。

「今もぶたれたり、しているのね」熱田氏は声をひそめて確認した。

「──いえ」森下氏はかすかに首を振り言葉を返した。「今は、もう……」

「もう、ぶたれていない」

「はい……でも、時々夢を見たり、します……」

「そう」熱田氏は手に持った数珠を、かりり、と両の掌に挟んで擦り合わせた。「今もそういう状態なのかも知れないわね。誰かが、助けに来てくれたの?」更に訊く。

 突然、森下氏は両手で顔を覆い、俯いたまま肩を震わせ始めた。

 女が泣く時のようなポーズだ。

 ということはつまり、彼に取り憑いている女が泣き出したのだろう。

 熱田氏は熱田スペシウムを当て続けながら答えを待っていた。

「兄さんが」やがて森下氏は震える声で言った。「止めてくれました」

「兄さん……お兄さん」熱田氏は復唱して言った。「お兄さんが、止めてくれた」

「──」森下氏は顔を覆ったまま肩を震わせて小さく頷いた。

 熱田氏は、震える森下氏を見下ろし、しばらくじっと見ていた。

 森下氏はただ震えて泣くばかりだった。

「お兄さんは」やがて熱田氏が言葉をつないだ。「どう、なったの?」

 私の脳裏にも、森下氏が次にどう返答するのか、予測がついた。

「……私の、代わりに……あっくんに……」森下氏の声はもはや声とならず、ため息を洩らすように苦しげな囁きとなった。

 熱田氏はまたしばらく森下氏を見下ろしていた。

「あっくんは」やがて、ゆっくりと彼女は言った。「あなたのお兄さんを、手にかけてしまったのね」

「違うんです」森下氏は震えながら、なおも顔を両手に埋めたまま、金切り声に近いほど上ずった声で言った。「私の代わりに、兄さんは」

 熱田氏の、熱田スペシウムの腕が一瞬ぐらりと傾いたように、私には見えた。

「あっくんの中に、入ったんです」

 沈黙が、部屋を占領した。

 誰も、何も言わなかった。

 熱田氏は、傾いた腕を――そこからまだ出つづけているのであれば、熱田スペシウムを――森下氏に当て続け、私は機嫌のいい赤ん坊の口ぐらいの大きさに口を開け、森下氏は両手で顔を覆いつくし、皆が黙っていた。

「あっくんの中に、入った」

 発するべき言葉はそれに間違いないし、私の脳裏にはそう復唱する熱田氏の声が既に聞えていた。

 だが実際のところ、それは発せられておらず、熱田氏は口を閉ざしたまま森下氏を見つめていた。

 それを見て私も、ぽっかりと開けていた口を閉ざした次第だった。

「どうやって?」

 やっと、発せられた熱田氏の言葉は、そういう質問の言葉だった。

「……私の、力で」森下氏は静かに答えた。

「あなたの、力で」熱田氏が復唱する。

「力」無意識のうちに、私自身も呟いていた。

「私の特殊な力を使って……兄はあっくんの中に入り、彼を止めました」

 森下氏の声は低くなり、冷静さを取り戻したようだった。

 私は衝動的に、自分の周囲を見回した。

 右を。

 左を。

 後ろを。

 もう一度左から、後ろを。

 念のために、真上を。

 その姿は、どこにも見えなかった。

 だが私には、その存在が、目の前の熱田氏や森下氏よりはるかに鮮明に、感じ取られていた。

 

 足だ。

 

 足が、今も私を見ている。

 足が、今もここに、いる。

 存在している。

「お兄さんは、あっくんの身体の中に入って、あっくんのあなたに対する暴力を止めた。そういうこと?」熱田氏はきょろきょろと辺りを見回す私には目もくれず、確認の質問をした。

「はい」森下氏は今度は深く頷いた。

「あなたの代わりに、と言ったわね?」また熱田氏は、確認の質問をした。

「はい」森下氏は再度、頷いた。

「本来ならあなたが、あっくんの身体の中に入るはずだったの?」

「私は……」森下氏は言い淀んだ。「私は、あっくんから逃げるべきだったんです……でもできなかった、私が、弱いせいで……だから兄さんが、最後の手段だ、と言って……」

 会話はそこでまた途切れた。

「ところで」やがて熱田氏は、話を続けた。「あなた自身は、生きているの?」

 森下氏が久しぶりに顔を正面に向け、熱田氏を見た。

 薄ぼんやりとした、眠そうな顔だった。

「……はい」小さく、頷く。

「お名前は? ああごめんなさい、私は熱田といいます」熱田氏はニッコリと笑って自己紹介をした。

 私は、自分も名乗るべきなのかと考え、森下氏と熱田氏を交互に見た。

 森下氏は、やはり私には目もくれず、熱田氏に向かってかすかに会釈をした。「私は……里野あきみといいます」

「さとの、あきみさんね」熱田氏は頷いた。「あっくん、あなたのもとかれは、本名はなんというの?」

「……堺田篤司、です」森下氏は静かに答えた。

堺田篤司」熱田氏はそう復唱しながら、今度は私に顔を向けた。「この名前に、心当たりはありますか」

 いかにも何かを探ろうとするかのように、彼女は目を細めて私を見つめ、訊いた。

「いえ」私の声はかすれ、横に振ろうとした首も、一センチ程度しか動かなかった。「ありません」

 熱田氏は、しばらく無言で私を見つめ続けた。

 じいい、という擬態語がまさにぴったりな、いわば“目で掘る”ような、見つめ方だった。

 彼女が何を思っているのか、私には無論、皆目見当もつかなかった。

堺田、篤司」熱田氏は、私を凝視しながらその名をことさらゆっくりと繰り返した。「わからない? 本当に?」

 私は自分の脳内をサーチし、今度ははっきりと、首を左右に数回振った。

「これは、あなたの名前よ」熱田氏は、言った。

 その時私は、何故か自分の携帯を尻ポケットから取り出していた。

 アドレス帳の、さ行のところを開く。

 ああ。

 そうか。

 

「てめえ」

 

 突然、男の野太い声がとどろいた。

 

「妹に何しやがったこら。おい。ええ。なんとか言え。あつし。おら。あつし」

 

 私はぎゅっと目を瞑った。

 その声は、私の脳裏――否、内臓の裏側の辺りに、ずっと、ずうっと、影を潜めていたのだということが、誰に指摘されずとも判った。

 確かに、そう言っていたのだ。

 足は、そう言いながらずっと、私を蹴っていたのだ。

 里野あきみ

 そしてその名前もまた、確かにそこにあった。

 携帯の、アドレス帳の、「さ行」のところ。

 そうだ。

 それは。

 元カノの名前じゃないか。

 私は、安心をおぼえ、久しぶりに笑顔を浮かべた。

「最初に熱田スペシウムを照射した時の様子から、なんとなく思っていたんだけど」熱田氏は静かに話しだした。「霊は“あなたに取り憑いている”のではなく“あなた自身の中に存在する”もしくは“あなた自身がその霊である”のではないかと」

「――」

 私は、うすく微笑んだ顔のまま熱田氏を見た。

 けれど彼女が何を言っているのかよくわからず、その為何も答えることができずにいた。

「やはりそうだったのね。その足の霊は、あなた自身の中にあるもの――ただしあなた自身ではなく、どのようにしてかわからないけれど、あなたの中に入り込んだ、あきみさんのお兄さんの、霊」

「――」

 あきみの、お兄さん。

 ああ。私は小さくうなずいた。

 あの、いつも怒鳴っていた、柄の悪い兄貴か。

 そうだ、あの兄貴なら、DVなんてお手のものだろう。

 奴が、足だったのだ。

 奴が足で、俺をごつごつ蹴っていやがったのだ。

DV幽霊 第17話(全20話)

「やめて……痛いよ」かすれた声で、彼――つまり森下氏――は続けた。

 これが、足の声、なのか?

 私は内心でそう問うた直後に、違う、と内心で答えを出した。

 これは、あの女性の声だ。

 いや、声そのものは森下氏の声だが、今彼の口から出てくる言葉は恐らく、私が聞いた正体不明の女性のものなのだろうと思われた。

 かすれ、疲弊し、最後の力を振り絞るかのように細くはかなげな、声。

 今にも死にそうな、若い女性の声。

 私を蹴り、踏みつけたあの暴虐の塊である足の声とは、とても思えない。

「大丈夫」熱田氏が穏やかな声で話しかけた。「あなたに、危害は加えないわ。安心して」

 森下氏はうつむき、目を閉じていた。

 唇は少し開き、細かく震えていた。

「ほら。もう、痛くないでしょ?」熱田氏は言いながら、ゆっくりと右腕を体の前に立てようとした。

 私は思わず、ハッと息を呑んだ。

 熱田スペシウムだ。

 熱田氏はちらりと私を見たが、構わず腕を持ち上げ、森下氏に向かって“照射”を始めた。

 私は目をしばたたかせ――何も、本当に“光線”が出ているのが見えるわけではないのでそんなリアクションをする必要もないのだが、そうせずにはいられなかった――、森下氏が床にのたうち回って苦しむさまを想像した。

 だが私の思惑は外れた。

 熱田スペシウムを当てられた森下氏――というか恐らく、今彼に乗りうつっている女性の霊――は、目を閉じたまま、その面に微笑を浮かべたのだ。「あったかい……」あまつさえ、彼女はごく小さな声で、そのように呟いた。

 ええー。

 私は思わず、声に出さずに口元だけで驚愕の言葉を発した。

 あったかい?

 熱田スペシウムが?

 え、気分、悪くならないですか?

「気持ちいい……」女性の霊は、また呟いた。

 どういうことだ?

 熱田氏は人によって、照射する光線の種類を変えているのか?

 そうだとしたら、不公平じゃないか。

 俺にはあんなにけったくそ悪い思いさせた癖に、なんでこの女には気持ちいい光線を当ててんだよ。

 まじ種類変えやがって、ドリンクバーか。光線バーか。

 金返せ。光線ババー。

 無論それは私の心の中だけで叫ばれたものだったが、私は小学生のように唇をとがらせ、眉をしかめていた。

 納得いかねえ。

「少し、お話聞かせてもらえるかしら」熱田氏は、熱田スペシウム体勢のまま話しかけた。

「……」森下氏は微笑を閉ざし、少しの間うつむいて無言でいたが、やがて「はい……」と、やはり小さな声で答えた。

「あなたは今、どこにいるの?」熱田氏は、質問した。

「マンションの……部屋です」女は答えた。

 私はうなずいた。

 そんなの、わかりきってるじゃないか。

 ここは私のマンションの部屋の中だ。

「あなたはいつから、そのマンションの部屋にいるの?」

「……五年前、から」

 私は目を天井に向けた。

 私がこのマンションに住み始めたのは何年前からだったか。

 少なくとも、五年より最近から、ということなのだろう。

 ええと、五年前というと……

「誰かと、一緒に住んでいたの?」熱田氏のさらなる質問に、私の考察は断ち切られた。

「……」女はなかなか返答しなかった。「……いいえ、ずっと一人……です」

「一人暮らし、しているのね」熱田氏は確認し、それからしばらく、森下氏を見つめていた。

 ずっと、熱田スペシウムは照射され続けているようだった。

 森下氏の方も無言で、固まったかのように微動だにせず、うつむき続けていた。

「あっくん、というのは」熱田氏は、穏やかな声で質問を再開した。

 森下氏の肩が、ぴくりと小さく動いた。

「恋人さん?」熱田氏は小首をかしげた。

「……」森下氏は顔を真下に向け、唇を噛んだ。

“あっくん”について、よほど語りたくないのだろう。

 さぞかし、その男からひどい暴力を受け続けていたのに違いない。

 私は女性が、気の毒になった。

 そういえば、この女性、名はなんというのだろう?

「大丈夫よ」熱田氏は囁くように言葉を続けた。「この光が出ている間は、あなたに危害が加えられることはないから」

「……」森下氏はなおも唇を噛んで黙っていたが、ゆっくりと顔を上げ、元のうつむき角度に戻したあと、小さくうなずいた。「あっくんは……元彼……です」

「もとかれ」熱田氏は復唱した。

 棒読みというかオウム返しというか、この人“元カレ”という言葉の意味、知らないんじゃないかと一瞬思わせるような口ぶりだった。

「あっくんは、あなたに暴力を振るっていたの?」熱田氏は質問を続けた。

 森下氏は、目を閉じたまま、くしゃっと顔をゆがめた。

「大丈夫」再び熱田氏が囁く。「大丈夫だから。私があなたを、守っているから」

 そういえば、足はまったく姿を見せない。

 あっくん――

 私は不謹慎にも、笑いを洩らしそうになった。

 あいつ、「あっくん」って名前だったのか。

 今度私の腰を蹴りにきたら、言ってやろうか。

「あっくん、やめて。痛いよ」

って――

 私はぎゅっと目を瞑り、首を振った。

 ばかな!

 この女性の気持ちを考えろ。

 不謹慎にもほどがある。

 しゃれにならない。

 それはともかく、足がこの場に姿を見せずにいるということは、今熱田氏が、熱田スペシウムによって奴の出現を封じ込めているからなのかと、私は考えを軌道修正した。

 私にとってそうであるのと同様、足にとっても、あの光線は気分の悪いものなのだろうか。

 もしかしたら、男にとっては害になるもので、女にとってはよいものであるとか、そんな性質をもつものなのか。

「私は……あっくんに、何度か殺されかけました」森下氏は静かに話しはじめた。「何かのきっかけで……突然、何かが取り憑いたように人が変わって、狂ったように暴力を振るいだすんです」

「きっかけとは?」熱田氏が、やはり静かに質問する。

「たぶん……嫉妬、だと」

「嫉妬」熱田氏は、女の答えを復唱した。

「はい」

 森下氏は「はぇ」ではなくはっきり「はい」と答えた。

 そのことからも、今話しているのは彼本体ではなく女の霊なのだと推察された。

「あっくんの、私に対する独占欲は……普通じゃなかったと思います」

「そう」熱田氏は超ピンクの唇をすぼめて森下氏を見つめながらうなずいた。「例えば他の男性と、話すだけでも怒るとか?」

「はい」森下氏もこくんとうなずいた。「実の兄と、電話で長話した後も……殴られたことがあります」

「まあ……」熱田氏は、眉をひそめた。彼女にしては珍しい表情だった。「殴られた?」

「はい」

「蹴られたことは?」

 あ。

 私は、顔を上げた。

 核心を突いた、という思いがよぎった。

 そうだ。あっくんは、蹴り専門の人のはずだ。

「……」森下氏は、少し唇を開いたまましばらく考え、「……たまに」と答えた。

「たまに」熱田氏はまた復唱した。

 たまに?

 私も心の中で問い返した。

 いつもじゃなくて?

DV幽霊 第16話(全20話)

「どうしたの?」

 熱田氏の声が聞える。

「……いました」

 森下氏が、消え入りそうな声で、かろうじてという感じで答える。

「いた? 何が?」

 熱田氏が、被せるように再度訊く。

 やはりこの女は、エセ浄霊屋だ。

 私は目を強く閉じたまま思った。

 何が? って。

 霊が、に決まってるじゃないか。

 だって森下氏って、霊媒なんだろ?

 そういう風に紹介したの、あんた自身じゃねえか。

「女の人……が」

「女の人」熱田氏は復唱し、それから矢庭に私の腕を握り締め、ぐいっと強く引いた。「ここに?」

 ここって。

 俺はもはや、場所扱いかよおばさん。

 物扱いですらなく。

 腕を振りほどく力も、残っていなかった。

「DV」森下氏は言葉を継いだ。「受けてた、もしくは受けている、みたいです……ね」

 抑揚のない、声。

 まるで、その言葉を発することが、罪を犯すことであるかのような、できれば言及を避けたいと願っている、そんな風情の、声。

 私は、そっと瞼を持ち上げてみた。

 私の腕を掴んだまま、私には目もくれず森下氏を振り向いている、熱田氏の後頭部。

 女性向けかつらのメーカー名が、ふと脳裏をよぎる。

 その向こうで、怯えた眼差しをこちらに向けている、眼鏡の霊媒男。

 今私が熱田氏の後頭部について抱いた感想も、もしかしたらこの男には“見えた”のだろうか。

 だが特に、彼の表情に変化は見られなかった。

 くすっと笑うことも、失笑も苦笑も、なかった。

 駅の中を通り過ぎてゆく人々は、相変わらず私たちに目もくれない。

 実は私たち三人自体、他の人間たちには“見えない存在”なのかも知れない。

「DV? ドメスティック・バイオレンス?」

 熱田氏が、総称を口にする。

「……はぇ」臆病な眼鏡男は小声で答える。「顔中、痣だらけの」森下氏は、かすれた風邪のような声で説明した。「女の人の顔が」

「それは、生き霊?」熱田氏は続けて問うた。「私には、何も見えなかったんだけど」

「わかりません、俺もほんの一瞬だけ見えたんで」 森下氏はうつむきながら答えた。「でもそれが見えた瞬間、この人の大脳辺縁系が、抑制を解かれたというか」ちら、と私を上目遣いで見る。

 熱田氏が、私に振り向く。

 超ピンクの唇が、デフォルメされたマンボウのようにすぼめられていた。

「そういえば、先日おうかがいした時に、女の人の声が聞えたって言ってたわよね」

 私は小さくうなずいた。

 涙が出そうになる。

 ごめんなさい。

 あなたの後頭部を見て、かつらメーカーの名前なんか連想したりして、ごめんなさい。

 理由はわからないが、この女性には抗えない、逆らえない、という想いが、頑強な枷となり私を支配していた。

 そう、私は支配され、抑圧されていた。

 この、熱田氏に――もっといえば、熱田氏の放つ“熱田スペシウム”に。

 一体、熱田スペシウムというのは何なのだろう。

「今も、もしかして?」

「はい」私は、すっかり体力を消耗していたにも関わらず、大人の男らしく、明瞭な発音で返答した。「女の人の声、あの時と同じ声が、聞えました」

「その声に、心当たりはないの?」

「ありません」首を振る。

「足に、蹴られてた人……ですかね」森下氏が、推測を口にした。「その部屋に、昔住んでたとか」

 私は、半分だけ残った魂でもって森下氏を見、そしてさらに半分だけ残った意識のもとで、理解した。

 あいつ……女性を、蹴ったりしていたのか。

 怪しからん奴だな。

「それで、蹴ってた方も蹴られてた方も両方、今この人に取り憑いてるってこと?」熱田氏が訊く。

「……すかね」森下氏の声は小さくなる。

 私は、眉をひそめた。

「つまり」熱田氏はまた森下氏に振り向き、話をまとめ出した。「今君が見た女の人は、前にこの人のお宅にうかがった時聞こえたという声の主。でも霊的な存在としては感知できなかった、そして痣だらけの顔。この人は足に顔や体をめった蹴りされた、けど痣にはならなかった」

「代替受害、すかね」

「あるいは」熱田氏はもう一度私の顔を見ながら超ピンク色の唇で言った。「その女の人がこの人を蹴ったのかしら」

「──」

 ごつごつして太い筋の盛り上がった足の姿が浮かぶ。

「あっくん、やめて」

 今にもこと切れそうな、か細い声。

 非整合性、という単語が光のようによぎる。

 いや、もしかすると女性であってもそんな足であんな猛撃を喰らわす人もいるのかも知れないが、あのか細い声とあの蹴りとが同一人物のものであるとはとても考え難い。

「そんな馬鹿な、って言いたそうね」熱田氏は私を見たままニヤリと笑った。

 私は返事をする力も頷く力もなくただ茫然と立ちすくんでいた。

「じゃあ、ともかくその部屋に、行ってみましょう」

 私たちは、ようやくホームへと向かいはじめた。

 ついに足と、対話できるのだろうか。

 森下氏を介して。

 

          ◇◆◇

 

 部屋のドアを開ける。

 今日は、何も聞えてこなかった。

「いる?」

「いや」

 熱田氏が短く問い、森下氏が短く答える。

「え」しかし森下氏のリアクションには、まだ続きがあった。「ここ、って……」

 熱田氏がうなずく。「きれいでしょ」

 私には、専門家(エセでないと仮定して)たちの話の内容は正確にはわからなかったが、推察するに、足の霊だの女の霊だの、他の地縛霊だのが何もいないという、先日熱田氏が言っていたのと同じことなのだろう。

 きれいでしょ、というのが必ずしも、私の掃除がゆきとどいている、という意味でないことだけは確かだった。

 私たちはリビングに入った。

「あのね」出し抜けに熱田氏が私の箪笥に近づいてゆき、その上に置いてあったものを手に取った。「これを、貸して欲しいんだけど。いいかしら」

 振り向いた彼女が手にしていたのは、私が前に買ってきたコウロだった。

 足を成仏させんと試みるため、会社帰りに仏壇屋で買ってきた、線香を立てる器具だ。

「あ、どうぞ」私は特段感銘を受けるでもなく、軽くうなずいた。

「ありがとう」熱田氏はニッコリと笑う。「前におうかがいした時から、いい香炉だなーと思って、目をつけてたのよ」

 そうなのか。

 私には理解の及ばない“世界”の話ということになるのだろうが、専門家に――エセでないとして――所有物を褒められるというのは、やはり嬉しいような、くすぐったいような気持ちにさせた。

 熱田氏はハンドバッグから、お茶の葉のような、かりかりと乾燥した草の入った袋を取り出し、その草を、何回かに分けて香炉の中につまみ入れた。

 香炉の中に入っていた灰は、足の成仏に失敗した後、処分してあった。

 その後は文字通り、宝の持ち腐れという状態だったのだ。

 熱田氏は、香炉をリビングのほぼど真ん中の床の上に、両手で大切そうに置いた。

 我々三人は、それを取り囲む形で床の上に正座した。

 正座は好きではないが、とても胡坐を掻く雰囲気ではなかった。

 熱田氏は続いて、ハンドバッグから蝋燭と、それに点火するための器具を取り出した。

 チャッカマンだった。

 私は不躾にも、口を少し開けてその器具を凝視してしまった。

 熱田氏は特に表情を変えることなく、コチ、コチ、と二回トリガーを押して点火し、蝋燭にその炎を移した。

 蝋燭は香炉の中に立てられ、チャッカマンは熱田氏のハンドバッグの中に収められた。

 そんなんで、いいのか。

 私の脳裏にそういった問いがよぎったが、そんなんで、いいのだろうと思うことにした。

 なにしろ専門家のやることだから――エセでないとして――

「それでは、始めましょう」熱田氏が、別人のように静かな声で宣言した。

 チャッカマンと交代で取り出されたらしい長い数珠が、そのふくよかな手に握られていた。

 彼女はその数珠を右手にぐるぐると二重巻きして合掌し、両手をすり合わせた。

 カリカリカリ、と、数珠球が心地よい音を立てる。

 森下氏が、ささやくように経を唱え始めた。

 彼の手に数珠はなかったが、その両手の指は、彼のやる気のない喋り方とうって変わって、ぴしりとまっすぐに伸ばされ、ぴったりと合わせられていた。

 見る者の背筋を、思わずしゃんと伸ばさせるような、見事な合掌、というか綺麗な合掌だった。

 無論私も、うなだれて合掌した。

 だが目は閉じず、薄目を開けて香炉から立ち上る蝋燭の炎のゆらめきを見つめていた。

 足は、出てくるのか?

 森下氏の口を借りて、ついに奴が話し出すのか?

 心臓が、文字通りばくばくと鳴っていた。

 

「あっくん、やめて」

 

 私は顔を上げ、森下氏を見た。

 彼は眉をしかめ、口を引き歪め、苦しそうに、悲しそうに、か細い声で

「痛いよ……あっくん」

 そう言った。

 ついに“それ”は、現実世界で語りだしたのだ。

DV幽霊 第15話(全20話)

 その理不尽さ加減は、どういうことなのだろう。

 私がそのことに気づいたのは、熱田氏から

「どうして、逃げなかったの?」

と質問された時だった。

 そうだ。

 言われてみれば、確かにそうだ。

 熱田氏ご指摘の通りだ。

 私は、どうして今まで、足に攻撃されるがままになっていたのだろう。

 答えの一部はすぐに出てきた。

 最初の頃の“じゃれつき蹴り”の余波だ。

 私の中でそれは、その現象は“逃げるほどのこと”では、ないことになっているのだ。

 だが、私の中に理由として思いつくものが他にもあった。

 恐怖だ。

 私は、恐くて動けなかった。

 体が、萎縮していたのだ。

 逃げようとすれば、きっと足に殺されるに違いない。

 そんな風に、無意識の内に決め付けていたのだ。

 今にして思えば、痛くはあるが翌日になってみれば物理的な、リアルな傷などまったく受けていないのだから、多分、命に別状もないのに違いない。

 思い切ってがばっと立ち上がり――もしかすると足は一瞬驚いてひるむかも知れないし――間髪を入れず部屋から飛び出してしまえば、あるいは逃げられたのではないか。

 まあ、夜の夜中だから、飛び出した後どうするのか、という問題も残ってはいる。

 では今夜から、夜寝るときは財布と携帯を傍らに用意して床に就くことにした方がいいのかも知れない。

 逃走資金と、通信媒体を持って。

「まあ、ともかく無事で何よりだわ」熱田氏は元気溌剌な声を張り上げ、ニッコリと笑った。「あ、それでこちらが、先日お話しした霊媒体質の子。森下君っていうの」

 そう言って、彼女の左斜め後ろに背後霊のごとく佇んでいる、眼鏡の青年を手で示す。

「あ、どうも。森下です」

 その眼鏡の男はぼそぼそと自己紹介をし、約二センチほど会釈した。

 私はプラス三センチ、つまり五センチほどの会釈を返した。

 場所は、駅の中だ。

 会社帰りの人間が急ぎ足で通り過ぎてゆく。

 我々は改札を入ってすぐの円柱の傍で落ち合ったのだ。

 そこから三人連れ立って、私の住まいに向かうことになっていた。

「ね、この時点で、何か見える?」

 熱田氏は、森下氏に訊ねた。

 私は一瞬、彼女が“エセ浄霊屋”なのではないか、と思った。

 熱田スペシウムなど、本当は出せないのではないのか。

 本当は人に頼らなければ、生き霊も死に霊も見えやしないのでは。

「……」

 森下氏は、眼鏡越しにじっと私を見た。

 かなり度数の強そうなレンズの向こうの目は、くっきりとした二重だが何か眠そうな、平たく言えば垂れた目だった。

 などと思っていると、突如森下氏は眉をひそめた。

 私は腋下に汗を掻いた。

 思考が読まれたのか。

「何か、」

 言いかけて森下氏は言葉を詰まらせた。

 だが私を見る眼差しは動かない。

 その内彼は、ゆっくりと、首を傾げはじめた。

 右に傾げ、次に左に傾げる。

 ゆっくりと。

「いるの?」

 熱田氏も私を探るように見ながら、森下氏に訊ねた。

 私は、さり気なく周囲を見回した。

 二人の男女に観察されている、くたびれたサラリーマンという構図は、道行く人々の好奇の目を止めたりしないだろうか。

 だが、会社帰りの人々は他に考えなければならないことがそれぞれにあるようで、私たちはまったく、人の目を引くことなどなかった。

「なんか」森下氏は復唱した。「んー……いる、というか、あります、ね」

「ある?」

 熱田氏と私の声が見事にシンクロした。

「はぇ」森下氏は「はあ」と「はい」の中間語で返事をし、自分の頭を右手の人差し指でつついた。「大脳辺縁系が、妙にびくびくしてます」

 私は、何も言えなかった。

 ただ、黒目を左右にきょときょと、数回往復させただけだった。

 本音を言えば、

「はあ?」

と、思い切り顔をしかめて訊きたかったのだが、抑制した。

「まあ」熱田氏は、森下氏の言っていることの意味がわかるのか、目を丸くして少し身をそらせた。「つまり?」いや、やはり彼女にもわからないようだった。

大脳辺縁系って、平たく言えば喜怒哀楽をつかさどる部分なんですけど」森下氏は熱田氏の方に向き直って、説明を始めた。「そこが、妙に抑えつけられてるっぽいです」

「つまり、感情が?」

 熱田氏が訊きかえす。

「はぇ」

「理性で感情を抑えてるってこと?」

「というよりも、何か理不尽に、無理くり抑え付けられてて、苦しがってるような感じというか」

「脳みそが?」

 ついに私も言葉を差し挟んだ――多少、噴出しつつ。

 霊媒体質というのは、あれか、要するに人の脳みそが透けて見える体質ということなのか。

 なるほどそんな体質ならば私には、断じて備わっていない。

 なるほどそんな能力が必要なのであれば、私が足との対話に失敗したのも、ものすごく当然至極ということになる。

 なにしろ脳みそが見えなきゃ、足と対話できないわけだ。

 足との対話なんか、土台できるわきゃねえということだ。

 そう、私は、爆笑を堪えていた。

 こいつら、何なんだ。

 十三万とかふんだくりやがって。まだ、払ってはいないが。

 大脳辺縁系だって?

 浄霊の話はどこにいったんだ?

 何が熱田スペシウムだ。

 ガキ相手にしてるつもりか。

 ガキ相手に十三万ぼったくる気か。

 こいつら、穢れてやがる。

「まずいわね」

 出し抜けに熱田氏はそう言うと、二の腕を顔の前に立てた。

 ハッと身構えたが、遅かった。

 私はまたしても、真正面から“熱田スペシウム”を食らってしまい、呼吸も困難になるほどの気持ち悪さに襲われた。

 思わず前のめりになったが、森下氏が不自然に見えない挙動で私の体を横から支え、私は“床でのたうちまわりたい”という欲求を実行に移すことができなかった。

 つまり自分の希望とは裏腹に直立したまま、熱田スペシウムの照射を受け続けなければならなかったのだ。

 ごめんなさい。

 子供のように心の中で泣き叫んだ。

 疑ったりしてごめんなさい。

 はい、確かに出てます、熱田スペシウム。

 私が悪かったです。

 もう、疑ったり馬鹿にしたり、しません。

 だから、許してください。

 もう、やめてください。

「今はどうなの? その、大脳辺縁系の状態は」

「変わらないです」熱田氏の問いに、森下氏は即答した。「妙ですが……情動の変化は、見られないですね」

「そう」

 二人の声は、どこか遠くから聞えてくるようだった。

 

「あっくん、やめて」

 

 か細い女の声が、聞えた。

 

「どうしてこんなことするの?」

 

 この、声。

 私は、ぐるぐる回る視界の中、かろうじて思い出した。

 あのときの、声だ。

 熱田氏がうちに来た時、ドアを開けた瞬間聞えた、死にそうな女の声。

 だがその時、気持ち悪さがいよいよピークに達し、私はぎゅっと目を瞑った。

 瞑る前に見えたのは、眠そうだった二重の垂れ目を最大限に見開き、驚愕の面持ちで私を見る森下氏の顔だった。

DV幽霊 第14話(全20話)

 次回の“セッション”の予約を取り付けた後、熱田氏は帰っていった。

 一人残された部屋で、私は自分の内部に緊張が高まりゆくのをひしひしと感じた。

 足は、今夜も出るのか。

 それとも、お札によって封印され、姿を現さないのか。

 私はテレビをつけた。

 バラエティ番組を放送していたが、そのまま風呂に向かった。

 入浴後、押入れから布団を出し、床を延べる。

 テレビの中は、政治や経済について議論する堅い番組に変わっていた。

 どちらにしても、私は真面目に観る気にならなかった。

 ただ、何か音が出ていてくれればよかったのだ。

 とはいえ、近所への影響も考え、音量は小さめにしておいた。

 布団に入る前、それをさらに絞り、電灯も常夜灯をつけたままにして、緊張しながら床に就いた。

 

「その会合の席で大臣はこう仰ってましたね」

 

 漫画のように、布団から顔だけ覗かせてテレビを見る。

 評論家がテーブル上に身を乗り出すようにして熱弁を振るっている。

「これは国民に対する裏切りといっても過言ではないと、私はそう思いますよ」

「違います。それは私の本意ではない、ただ私はもっときちんとした制度として法的に確立させた上でないと」

「とにかく大臣のこの発言を聞いた後では、とても投資に資産を回す気にはなれない」

 いつものことだが、議論は劇的に白熱しているようだ。

 私は、こういった丁々発止の番組というのが本来あまり好きではないのだが、今日はなんだか、熱心にとまではいかずとも、なんとなく、ぼんやりと、彼らの言葉に耳を傾けて、そして眠りに就きたいと思った。

「それは、言葉は悪いが勘ぐり過ぎ、早とちりというものであってですね」

「いや、誰もがそう思ってますよ。なにも私個人だけの捉え方じゃない」

 足は、姿を見せない。

 やはり、お札効果が出ているのだろうか。

「御札効果」……なんだか、経済用語に似ているな……

 私は、だんだん眠りに堕ちていきつつあるようだった。

「この円安の状況下だからこそ」

「ちょっと話を聞いてもらえますか」

「では、ここで一旦CMです」

 瞼の裏に映る色が、変わった。

 若いアイドル歌手の歌うCMソングが流れる。

 政治家や評論家の親父たちの、しわがれた怒声から、うって変わって明るい声。

 ああ、やっぱこっちの方が、心地好いな……

 

「自分に自信がない。まったくもう、驚くほど、自分がちっぽけに見える。人と対峙するたびに、どんどん自分が嫌になっていく」

 

 ぼそぼそと喋る、男の声。

 何のCMだろう……またアイドルの声から一転、張りのない声だな。

 なんつうか、うだつの上がらない声、とでもいうのか……

「どうして俺は駄目なんだ。何をやっても。何を言っても。何を思っても。何を見ても。何を聞いても。すべて、俺じゃ駄目なんだ。きっと他の者なら、そう例えば、あいつやらあいつやら、あいつだったらきっとそれはうまく行くんだ。人からも評価されるんだ。だが俺じゃ駄目だ。俺じゃまったく何の成果も得られない。リスクばかりで、リターンなし。ノーリターンだ。誰も、興味も関心もまったく示しやしない」

 男の声はぼそぼそと続いた。

 長いCMだな……それとももう番組に戻ったのか……

「何か、俺に制御できるものを、大急ぎで探さなきゃいけない。俺にコントロールできるもの。俺に、制覇できるもの。支配できるもの。それが、あいつだった」

 あいつ……

 つまり、俺のことか……

 ハッとした。

 目を見開いた。

 

 布団の外に、足がいた。

 

 爪先から、足首の十センチ上辺りまでが、私の鼻先数センチのところに見えていた。

 布団が、いや部屋が、いや世界が、異様に揺らめいた。

 だが不思議なことに、そこに見えている足は、足だけは、揺らめかないのだ。

 足は確固として、そこに存在していた。

 そうして足は、確固としてそこに存在したまま、私を蹴り始めた。

 そうだ。

 そもそも、そうだった。

 諸兄は覚えているだろうか、この足が、布団の存在にかまわず、私の腰を直截的に蹴り飛ばしていたことを。

 ああ、今にしてみれば、懐かしい日々だ。

 あの頃は、平和だった。

 というのもおかしな話だが、まあ今よりは、平和だった。

 何が平和って、蹴られ方がだ。

 あの頃の足の攻撃は、痛くなかったのだ。

 まるでじゃれついてきているかのような、ふざけ半分の、遊び心からの蹴り、そんな感じだった。

 今のように、全体重(恐らく)をかけて、明らかに敵意をもって、激痛の走る蹴り方などしてこなかった。

 私は布団の存在に関わらず、直截的に、頭のてっぺんから足先まで、激しく蹴りつけられた。

 布団の存在に関わらず――そしてお札の存在に関わらず。