葵むらさき小説ブログ

大人のためのお伽噺を書いています。作品倉庫: https://www.amazon.co.jp/%E8%91%B5-%E3%82%80%E3%82%89%E3%81%95%E3%81%8D/e/B004LV0ABI/ref=aufs_dp_fta_dsk

#DV幽霊 第13話(全20話)

 熱田氏は、私の部屋の壁をゆっくりと見回し、天井を見上げ、床を見下ろした。

 私はそれを眺めながら、昔バイトしていたコンビニの店長を思い出していた。

 清潔好きな女性で、店内の清掃や整理整頓、棚上の商品の並びやフェイスアップに厳しいのはもちろん、学生バイトに対しては私生活においても“きちんと”するようにと、ことあるごとに説教していた。

 いわく、

「部屋というのは、いつ誰が来てもいい状態にしておかないといけない」

と。

 特に尊敬していたわけでもなかったが、特に嫌いでもなかった相手でもあり、私はなんとなく、その言いつけに対しもっともだと納得して、なんとなく今日まで守っていた。

 そうしていてよかったな、と、今思っているわけだ。

 今日のように突然、浄霊屋が部屋にやって来ることも、人生においてはあるのだ。

「いないわね」

 熱田氏は、また顎に手を当て小首を傾げた。

「いない?」

 私は訊いた。

「ええ」

 熱田氏はもう一度、部屋の中をゆっくりと見回した。

 霊が。

 と、いうことか。

「特に、通り道、というわけでもなさそう」

 言いながら、壁に向かって掌をかざす。

 また“熱田スペシウム”を出しているのか。

 私は我知らず、眉をひそめた。

 顔をそむける。

 気にしないことだ。

 熱田氏が、手や腕から何を発射しようと、私には害はないのだ。

 むしろ、彼女は私を救うために、それを発射しているのだから、感謝しなければならない。

 だが、そうとわかってはいても、私は顔を正面に戻すことができずにいた。

 一体、どういう物質がそこから出てきているのだろうか。

 よっぽど、“気”というのか、スピリチュアルな、人知の及ばない何か霊的な力が、強く発せられているのだろう。

 私は、それによってきっと、足から救い出されるのだ。きっとそうだ。

 そういう思いに、精神を集中させた。

 きっと、平和と安寧は訪れる。

 熱田氏を信じるんだ。

 沈黙がしばらく流れた。

 私は、そっと顔を熱田氏の方に向け直した。

 熱田氏は、じっと天井を見ていた。手はまだ壁に向けている。

 私も倣って、天井を見た。

 何もない、ただの天井だ。

 足は、どこにもいなかった。

「何も、感じないわ」

 やがて熱田氏は、ため息まじりに白状した。

「霊的な存在は、ここにはいない」

「そうなんですか」

 私は小声で答えた。

 もしかしたら、熱田氏が来ているからじゃないのか。

 そう思った。

 彼女が帰ったら、待ってましたとばかりに足が飛び出てきそうな予感が、した。

「変よね」

 熱田氏は、首を小さく横に振った。

「なんにもいないなんて」

「そうなんですか」

 私は小声で訊いた。

「だって、どこに行っても大概、何かしらの霊というのは通常、存在しているものなのよ。それが、まったくなんにも、何の存在も、感じないなんて」

「へえ」

「ここはまるで」

 熱田氏は言葉を切り、もういちど私の部屋の中を見回した。

「何かの結界を張られたように、清浄だわ」

「えーっ」

 私は目を丸くした。

「清浄、ですか?」

 熱田氏に倣って、部屋の中を見回す。

 いつも生活している自室だが、天井を改めて観察することなど滅多にはない。

「その足の霊が」

 熱田氏は私を見て言った。

「他の霊を寄せ付けずにいるのかも、知れないわね」

「――」

 私は返答できずにいた。

「何者なのかしら」

 熱田氏は、私を見たままで言った。

「その足って」

「――」

 私はやはり答えられずにいた。

 足とは、何者か。

 知らない。

 それが、答えのすべてだった。

「哺乳霊、と私言ったけれど」

 熱田氏はまた壁に“遠い目”を向けながら、呟くように言った。

「もしかしたら、そんな平凡なものじゃないのかも」

「――」

 哺乳霊、それそのものが私にとっては“非凡”に思えたのだが、私は黙っていた。

「他の霊を寄せ付けない、そんな強大なパワーの持ち主といえば」

「――何、ですか」

「それより上の存在」

「――上」

「つまり、神」

「か」

「或いは、仏」

「――」

 私の唇は“ほ”の形を作ったが、声にならなかった。

 は? 神? 仏?

 いや待ってくださいよ。

 冗談でしょう?

 あいつは、私を夜ごと毎晩、ごっつごっつ蹴っとばしていたんですよ?

 神とか仏とかが、そんなことしますか普通?

 それどころか最近じゃ、ほんと浄霊に逆ギレしてる状況で。毎晩ほんと。

 あんなの、神でも仏でもないすよ。

 むしろ悪魔ですよ。悪霊。

 ごたく並べてないで、とっとと追っ払ってもらえますか。

 私の中のクレーマーが、口角泡を飛ばして怒鳴り散らしていた。

 そして同時に、

 はい、はい、ただ今直ぐに対処致しますので、今しばらくお待ちください、は、まことにお待たせしまして、申し訳ありません。

 と私自身の声がそれに対し平身低頭で平謝りしていた。

 職業病だろう。

 こっちは金払ってるんだ。

 脳内クレーマーは尚も言い募ったが、私はそれに対し自分できっぱりと否定した。

 いえ、お客様にはまだご清算いただいておりません。

「まあ、とにかくお札をどこに貼るか、決めてしまわないとね」

 熱田氏のため息交じりの声に、私は頬をはたかれた思いで現実に戻った。

「貸して」

 私に向かって手を差し出す。

 私は約二秒ほど、ぼけーとそのふくよかな手を見つめ、

「お札」

と、熱田氏の超ピンク色の唇が目的語を告げるのを聞き慌てて鞄からそれを出した。

 熱田氏はお札を手のひらに載せ、鼻先で左手の中指と人差し指を並べて立て、ぶつぶつと何かお経のようなものを唱えながら、部屋の中央でゆっくりと回転した。

 そして

「ここね」

と、押入れの襖の左隣、床から約1.5メートルほどの高さにお札を宛がった。

 お札の裏面というのか、筆書き文字の書かれていない方の面から、指先でぴーっとテープ状のものを引き剥がす。

 そうして目星をつけた位置に、

 

 ぱん

 

とお札を一挙動で貼りつけ、上下の端を指先で心持ち整え、

 

 ぱん

 

と合掌し、経を小さく唱えた。

 私も我知らず合掌し頭を垂れていた。

 こんな、あっさりしたやり方でいいのか。両面テープで。

 そんな想いが胸中にないではなかったが、なにしろ依頼してしまったのだから、後は専門業者の仕事に口出し無用だと思い、何も言わずにいた。

「そうね。これで、様子を見てちょうだい」

 熱田氏は振り向き、久しぶりに見せる微笑で私に言った。

「はい」

 私は神妙に頷いた。

「それから次回、霊と――まだ霊なのかどうかわからないけれど、直接対話を試みることにするわ」

「直接」私は顔を上げた。「足と、ですか」

「ええ」

 熱田氏は頷いた。顎の下の脂肪が三日月型に寄り集まった。

「その道の専門家がいるの。あなたと最初に電話で話した男の子よ。今度紹介するわね」

 ニッコリ笑う。

 最初に電話で、と言われてもすぐには思いだせなかった。

 ずっと後になってから、言葉の歯切れの悪い、やる気のなさそうな電話対応を思いだした次第だ。

「彼は霊媒体質でね」

 熱田氏は説明した。

「その“足”を、彼に取り憑かせて、代弁させるの」

「へえー」

 私は心底感嘆の声を挙げた。

 足と、対話。

 私がかつて失敗した芸当だ。

 なるほど、霊媒体質という専門能力が、それには必要だったのだ。

 それならば、私が失敗しても致し方ない。

 妙に納得がいき、心のどこかで満足を覚えていた。

 それじゃ無理もないよな。

 俺は、普通の人間なんだから。

 何も足と対話できなくても、俺が悪いわけじゃない。

 ただ、霊媒体質というものに恵まれなかっただけなんだから。

「ただ、もしかしたら」

 熱田氏は再び眉を曇らせた。

「生き霊、なのかも知れないわね、“足”って」

「生き霊?」

 私もまた目を丸くした。

「足が?」

「ええ――生き霊だと、霊媒にも代弁が難しいのよ」

「へえー」

「まあそうだとすると今度は、あなたに関わりのある人間だってことに限定できるから、却って対処が簡単になっていいけれどね」

 またニッコリとする。

 そういうものか。

 私は茫然と、数度頷いた。

 生き霊。

 私と関わりのある、誰か。

 言い換えれば、毎夜蹴り飛ばしたくなるほど、私に何かしら悪意を抱いている、相手。

 巡らせたくないものではあったが、いきおい私の中でそれに当てはまりそうな人間たちの相貌が、巡り始めていた。

DV幽霊 第12話(全20話)

 熱田氏は、私の居場所を訊ねて来、直接御札を届けると言ってくれた。

「下手にそこから動くと、危ないかも知れないから」

というのが、彼女の意見だった。

 まるでSPだな。

 私はそのメールを見ながら少し吹いた。

 足が、私の後をつけ狙っているとでもいうのか。

 私には、足があの部屋から出てくることなどまるで想像もつかなかった。

「足だけとは限りません。他の部分も存在している可能性があります」

 特に異論を唱えたわけではないが、熱田氏は追加メールでそういう説明を寄越した。

 熱田氏が実際にやって来たのは、およそ三十分後だった。

 タクシーを使ったのだろうか。

 その経費も、私の浄霊代の中に含まれているのだろうか。

 そんな質問をする暇など当然なかった。

 熱田氏はカウンターのスツールに腰掛けながら逞しい腕を店員に向かって差し上げ、

「生中」

と注文した。

「こちらが、御札です」

 そして居酒屋のカウンターの上で、彼女は私に、長方形に畳まれた紫色の袱紗を差し出した。

「ああ、これが」

 私は、酒の回った頭なので、さして緊張などしてもいなかったのだが、可能な限り厳粛に受け取ろうとした。

 だがやはり、酔っ払いに触れられたくなかったのかどうか、熱田氏はすぐにまた袱紗を取り上げ、さらさらとそれを開き、中身の白い紙製の御札だけを改めて差し出してきた。

 御札の、表紙というのか、表書きというのか、最初に目に入った面には、私の知らない文字が一文字、筆書きされていた。

 日本語ではない。

 いわゆる“梵字”というものだろうか。

 とにかく、日本の当用漢字でないことは確かだった。

 私は、純粋な物珍しさにとらわれてその字を見つめた。

 字もまた、私を見つめているような気がした。

 何かの呪文、何か霊的な念のこもった文字なのだろうか。

 私にはまったく知識がなかった。

 これまでの人生で、そのような文字を目にしたこともなかったのだ。

 この世に、こんな文字が存在しているのか。

「これを貼る場所なんだけどね」

 熱田氏は御札をちらりと見下ろして説明した。

「よかったら……というか、ぜひ、これからお宅へお邪魔させていただきたいのよ」

「え」

 私は半眼の目を熱田氏に向けた。

「今から、ですか」

「ええ。突然こんなこと言ってごめんなさい、だけどやはり、実際に部屋の中を見させてもらわないと、御札を効果的に使ってもらうことができないから」

「……はあ」

 届いた生中を、熱田氏は威勢よく呷った。

 私はぼんやりとそのさまを眺めていた。

 その威勢のいい飲みっぷりが、ただこの女性の酒好きさを表すものなのか、それともこれから行う“ひと仕事”のために景気をつけるためのものなのか、わかるはずもなかった。

 私のマンションまでタクシーを使ってもらえるのかと若干期待していたが、そうは問屋が卸さないようだった。

 熱田氏はコツコツと高らかにヒールを鳴らし、威風堂々という勢いで駅へと向かった。

 恐らく浄霊団体から支給されたものと推測されるICカードを改札に通し、私の後からホームへ上がるエスカレーターに乗る。

「足元に気をつけてね」

 まるで母親のように、私の背後から注意を促す。

 電車は空いていて、私と熱田氏は人一人分の距離を置き並んで座った。

「あれから考えてみたんだけどね」

 熱田氏は、電車が動き出して少しすると口火を切った。

「どうも、わからないのよ」

「何がですか」

 私は訊ねた。

「正体が、よ」

 そう言って熱田氏は、私の方を見た。

「正体?」

 私も熱田氏を見た。

「ええ。哺乳霊だということはわかったんだけれど、人間なのか動物なのか、どうしても判断がつかないの」

「そうなんですか」

「いつもなら、初回の照射でほぼ特定できるものなんだけどね」

 熱田氏は何事か思いめぐらせるように、顎に手を当てまた正面を向いた。

「照射……あ」

 私の脳裏をファミリーレストランでの光景がよぎった。思わずえずきそうになり、 慌てて私も正面を向いた。

「あの、セルライトビームでしたっけ」

「熱田スペシウムよ」

 熱田氏は私を見ずに答えた。私はハッと硬直し、私もまた熱田氏を見ることができなかった。

 タタン、トトン、という電車の音の中、我々は沈黙の時を過ごした。

 やがて電車は私の降りるべき駅に、いつも通り何のつまずきもなく到着した。

 特段の会話もないまま、我々は降り立ち、改札を抜けた。

 すっかり静まり返った町中を数分ほど歩き、見慣れた居住ビルに到着する。

 階段を昇り、私は取り出した鍵を回してドアを引いた。

 

「どうしてこんなことするの?」

 

 突然女の声が聞え、私はハッと顔を上げた。

 真っ暗な部屋――暗闇が、目に入る。

 誰かいるのか?

「どうしたの?」

 熱田氏の声が、背後から聞えた。

「入らないの――何か、気になる?」

 職業的な勘というのか、熱田氏は、恐らく彼女には聞えなかっただろう声を私が捕らえたことを推察したようだった。彼女は私の横から首を伸ばして暗い部屋の中を覗きこんだ。

「何か、見えた?」

「い、いえ……」

 私は、言うべきなのかどうか、一瞬迷った。幻聴なのかも知れない。

「気配を感じたとか? 何か聞えたとか?」

 熱田氏はさらに追及してきた。

「あの……声が」

「声」

 熱田氏は、私を見た。

 私も熱田氏を見、かすかに頷いた。

「どんな?」

「――女性の声、が」

 私は、なんとなく声をひそめて答えた。

 熱田氏は、暗い部屋の奥に再度目をやり、しばらく凝視していたが、やがて小首を傾げて

「変ね」

と呟いた。

「何がですか」

 私は訊ねた。

「女性の霊なんて、感じないわ」

「……」

 

「どうしてこんなことするの?」

 

 疲弊しきったような、かすれた声。

 声音からは、若い世代――二十代くらいの女と思われる。

 泣きながら訴える声だったのかも知れない、そんな風な、今にも切れてしまいそうにか細い、か弱い声だった。

 私の耳には、判然と届いたのだ。

 私は、顔を横に向けた。

 どこか近所の部屋から聞えたのだろうかと一瞬思ったのだ。

 

「こんばんは」

 

 先日、玄関先で逡巡する私に声をかけてきた主婦の姿が浮かんだ。

 だが、違うと思った。

 あの主婦は、少なくとも四十代あたりに見えたし、声質もまったく違う。

 それに第一、近所からの声ならば熱田氏にも感知できたはずだ。

 暗く、静かな部屋からは、もう何も聞えてこなかった。

 私は熱田氏の視線に促され、中に入った。

 灯りをつける。

 日常通りの、自分の部屋だった。

DV幽霊 第11話(全20話)

 翌朝、洗面所の鏡を覗くと、やはり私の顔は無傷のままだった。

 一体、どういうしくみなのだろう。

 私の中に、ある意味“興味”と呼べるものさえ生まれた。

 間違いなく痛いのに、間違いなく触感はあるのに、間違いなく蹴転がされているのに、どうしてその痕跡はまったく残っていないのだろう。

 錯覚なのか。

 やはり私自身の精神の部分に、何か重大な問題が生じているのだろうか。

 もしそうだとすれば、私の行くべき所、頼るべき機関は、あんなぼったくりの浄霊屋ではない、ということになる。

 そう、同じ十三万円を払うのであれば。

 どうすればいいのか。

 自分の身の振り方を考えあぐね、私は吐き気を催しつつも、出勤の途についた。

 部屋の中にはいたくなかったし、他に行く所も思いつかなかったし、社会人としての理性がまだ自分の中に、もしかすると必要以上に、活きていたのだ。

 そして仕事は、多忙さというものは、私を救ってくれた。

 私は業務に集中し、その間足のことも、自分が異常かも知れないことも、浄霊屋の甲高い声や太い腕のことも、すべて忘れていられた。

 だが悲しいことに、仕事というのは二十四時間、続けていられるものではない。

 退社時刻がこなければいいのに、とはっきり願う日が来ようとは、想像もしたことがなかった、だがそれは来た。

 会社を出なければならない。

 自宅に、戻らなければならない。

 

 私はしばらく街を彷徨った後、一人で居酒屋に入った。

 お疲れさんコース、という名前のメニューを頼み、小鉢三点と共に運ばれてきた生ビールを呷る。

 枝豆をつまみながら、カウンターの隅で一人ため息をつく。

 どうすればいいんだ。

 一杯目のビールを飲み干し、二杯目を注文し、それが届くまでの間両手で自分の頭を抱え肘を突いて待っていた。

 カウンターの後ろに畳敷きの小上がり席が並んでおり、その一席に集まっていた女子会らしき集団の、楽しそうにはしゃぐ声が耳に届く。

 私はスーツのポケットから、携帯を取り出した。

 ビールが届いた。

 それを飲みながら、アドレス帳を開く。

 その名前は、さ行の中に登録してあった。

 未だ、削除していない。

 ビールをジョッキ三分の一空けるまで、私はディスプレイを見つめていた。

 メールでも、ネットでも、ゲームでもない、アドレス帳の画面をだ。

 そしてその間三度、その相手のメールアドレスからメール作成画面を立ち上げては消していた。

 そう、私は、別れた彼女にメールを送ろうかどうしようかと迷っていたのだ。

 仮に送るとして、何と送ればいい? 何と送る?

「元気?」

「今一人で飲んでます」

「最近調子どう?」

「何か面白い事件的なことあった?」

「俺最近ちょっとやばくて、是非話聞いて欲しいんだけど」

「実は足の幽霊に毎晩蹴られて勘弁して欲しいんだけど俺変かな?」

「で、ものは相談なんだけど、今晩泊めてくれない?」

 何故だろう、私は不意に、泣きべそ顔になりそうになった。

 急いでハンカチを鼻に当て、くしゃみが出そうになったことにした。

 ビールを、ジョッキ三分の二まで呷る。

 襟元を正し、枝豆をつまむ。

 しっかりしろ。俺。

 否だ。

 あり得ない。

 二年前に別れたきり一度も連絡を取っていない元カノの家に「泊めてくれ」なんて。

 しかもその理由が「足の幽霊が怖いから」だなんて。

 それこそ、俺の精神に異常ありの話だ。

 私は考えた。

 ビールを飲み、切り干し大根の煮物をつまみ、出し巻きを頬張りながら、どうすべきか考えた。

 そして再び、携帯を手に取った。

 今度は違う相手にメールを打つ。

 すぐに返信があるかどうかは、わからない。

 だが、何も手を打たずにいるよりはましだ。

 メールを送った先は、熱田氏だった。

 だが無論「今晩個人的に泊めてもらえませんか」などとは頼まない。絶対にない。

 私が送った文面は以下だった。

 

・・・・・・

 夜分の連絡失礼します。

 実は先日の面談以来、私に取り憑いている足の霊の攻撃が激しくなり、毎晩辛い目に遭っています。

 つきましては、自宅に戻らずにすむよう、どこかビジネスホテル等で宿泊の手配をお願いできませんでしょうか?

 このまま自宅に戻ればまた暴力を受け、心身が危うくなると危惧されますので、宜しくお願い致します。

・・・・・・

 

 私としては行間に『あんたとの面談のせいで被害を被っているんだ』という苦言を呈しているつもりだった。

 だがどこまであの熱田氏に通じるのかは、疑問であった。

 とにかく送信し、三杯目の焼酎水割りを飲んでいると、数分後に返信が来た。

 

・・・・・・

 お世話になります。熱田です。

 この度は霊障の被害に遭ったとのこと。

 心痛お察しいたします。

 さて、当施設内に宿泊設備はございます。

 利用料については、一泊三万円となります。

 以上、急ぎご連絡申し上げます。

・・・・・・

 

「さんま」呟きを途中で止めたため、結果それは青魚の名前となった。

 居酒屋の店員が一瞬こちらを見たが、何も追求してはこなかった。

 秋刀魚の季節ではないからだろう。

 私は茫然と携帯メールの文面を見つめた。

 この人たちは。

 しばし、酒を飲むこともつまみを食べることも、忘れていた。

 この人たちは、この仕事をやってて楽しいんだろうか。

 ふとそんなことを思った。

 専門職っちゃ専門職なんだろうけど。

 十三万に、三万。

 いわゆる、ウハウハって奴だな。

 私は、その浄霊集団の宿泊施設を使う気にはまったくならなかった。

 無料宿泊させろとゴネてみる、という方策も思いついたが、メールでそんなことを言っても埒は開かないだろうし、電話で熱田氏と丁々発止の直接交渉をする気にもなれなかった。

 酔いがまわってきているのもあり、そんなことをするには心身共にだるかった。

 となれば、またあの部屋に戻らざるを得ないわけだが、そうするとまた足の猛撃を食らうことは明らかだ。

 私は別の視点から、熱田氏に交渉することにしてみた。

 

・・・・・・

 宿泊施設についての情報ありがとうございます。

 本日は利用を見合わせることにします。

 ところで、本当に浄霊はできるんでしょうか?

・・・・・・

 

 返信は一分後にきた。

 

・・・・・・

 場合によっては、浄霊でなく除霊になります。

・・・・・・

 

 除霊? 私は目を丸くし、焼酎を飲み、またメールで質問した。

 

・・・・・・

 浄霊と除霊はどう違うのですか?

・・・・・・

・・・・・・

 浄霊とは、憑いている霊を成仏させることですが、それが不可能な場合は除霊、つまり単に霊を取り祓う、ということになります。

 この場合、再び霊が戻ってきてしまう可能性があります。

・・・・・・

・・・・・・

 除霊になった場合、料金については安くなりますか?

・・・・・・

 

 返信がない。

 私は苦虫を噛み潰した。

 こんなんで、本当に俺は救われるのか?

 心から苦々しく、そう思った。

 だが返信は数分後、焼酎の湯割りを頼んだ直後に届いた。

 

・・・・・・

 除霊の場合料金は二割減となります。

 ところで、足からの攻撃が激しくなっているとのこと。

 さぞお困りと存じます。

 お札をご利用になりますか?

・・・・・・

 

 お札。

 漫画やTV番組でしか見たことがなかった。

 何か、墨で呪文のようなものが書かれた、短冊様の紙製の神具。

 

・・・・・・

 使いま

・・・・・・

 

 打ちかけて、手が止まる。

 一体、幾らだ?

 

・・・・・・

 お札は、料金はかかりますか?

・・・・・・

・・・・・・

 お札代は、器具代金の中に含まれます。

・・・・・・

 

 私はつい微笑の顔になった。

 一瞬、この浄霊団体が“親切な人たち”に思えてしまったのだ。

 

・・・・・・

 では、利用させていただきます。

 本日、受け取る事ができますか?

・・・・・・

 

 はい。

 あなた方に浄霊、不可能な場合は除霊を、依頼します。

 料金十三万円については、これを承諾します。

 そう宣言することであるという自覚のまったく無きまま、私は熱田氏に、メールを送信した。

DV幽霊 第10話(全20話)

 翌朝目覚めてからも、首筋や後頭部、そして顔面全体に、痛みが残っていた。

 私が意識を失った後も、足は私を踏みつけ続けていたのだろうか。

 さぞや顔面痣だらけになっている事だろう――

 そう思いつつ覗いた洗面所の鏡の中の私の顔には、傷一つなかった。

 いつも見慣れている通りの、いつものままの私の、美しくはないがきれいな顔だった。

 私は茫然と、鏡に手を触れていた。

 鏡は冷たく、当然ながらツルツルしていた。

 それどころか、目ざめてすぐの時に感じていた痛みの“余韻”すらも、いつの間にか消えていった。

 私は訳が分からないまま、だが心のどこかではほっと安心しつつ、身支度をして通常通り職場へと向かった。

 

 私が顔面に暴行を受けたことに気づく者は、当然ながら誰一人としていなかった。

 誰も私を注視せず、誰も私に心配そうに声をかけてこなかった。

 私が、既に痛みは消えているが昨夜確かに足に踏んづけられた首筋の辺りを手でさすっていると、首が凝るのか、少し休めと同僚から声はかかったが、首が「痛むのか」、首を「どうかしたのか」、首に「何かされたのか」と訊く者は誰もいなかった。

 痛みはない、傷もない、だが記憶は鮮明にある。

 はずだった。

 夕刻を過ぎ夜になり、帰途に着く頃、私の中でついにその記憶さえあやふやになり始めてきた。

 それは、夢だったのか?

 昨日受けた“浄霊”――というか“プレ浄霊”――による、あまりのダメージに、帰宅後知らないうちに意識を失い、足が、腰ではなく顔を蹴りにきた“夢”を、見てしまったのではないのか。

 浄霊なんか、したから――しようとしたから――

 俺が、いけなかったのかな。

 私は虚ろな目で帰途に着いた。

 自分の撒いた種。

 そういう言葉が、脳内をよぎっていた。

 部屋の前に立つ。

 鍵を取り出す。

 だが玄関ドアの鍵穴に、中々手が伸びようとしない。

 目の前に迫ってきた足が、奴の足の裏の皺の一筋一筋が、鮮明に思い出された。

 私は目をぎゅっと瞑り、強く首を振った。

 

「こんばんは」

 

 女性の声が、右手から控えめに聞こえて来、ハッとして顔を向けた。

 二件隣に住む主婦だった。あいさつ程度しか交わしたことのない相手だが、玄関の前で立ち尽くす私の姿に異質さを見出したのかも知れず、その声はいつもより遠慮がちに聞えた。

 表情は、一瞬しか見なかったが(後は私の方がさっと下を向いてしまった)やはりどこか気づかうような、心配そうなものだったかも知れない。

 私は蚊の鳴くような声で「今晩は」と返し、そそくさとドアを開け中に入った。

 

 部屋は、いつもと同じ、薄闇の世界だった。

 私は震える手で、照明のスイッチを入れた。

 足は――いるのか?

 足は、奴はそもそも人間でないものなので“ひと気”がまったく感じられない――冗談のつもりでは無論ないが、人が存在している時に感じられるような雰囲気、ムード、つまるところひと気は、奴からは微塵も感じられない。

 そして奴はまた、動物でもない。

 犬とか猫とか、あるいは他の生き物でもいい、いわゆる愛玩動物の類ではない。

 なので、私が帰って来たからといって餌をねだりに来たり頭を撫でてもらいにきたりすることも一切ない。

 私が足に「出迎え」を 受けることは、決してないのだ。

 キッチンにも、リビングにも足はいなかった。

 トイレにもだ。

 私は部屋着に着替え、床にぺたりと座り込んだ。

 買ってきたビールの缶を開けたのは、座ってから約五分後だった。

 だがそれを口に運ぶ前に、私はあることを思いついてそれをまたテーブルに戻し、立ち上がった。

 メールだ。

 熱田氏から、その後連絡は届いているのか。

 上着のポケットに入れたままにしておいた携帯を取り出してみた。

 新着メールが三件ある。

 私はこの時まで、それにまったく気づかなかった。

 開いてみると、うち一件は確かに熱田氏からのものだった。

 

・・・・・・

 先日はありがとうございました。

 浄霊にかかる料金についてご連絡します。

 祈祷料 五万八千円(税込)

 式準備費 二万六千円(税込)

 器具代 四万六千円(税込)

 以上で、合計十三万円(税込)となります。

 分割払をご要望の節は、このメールへのご返信にてお申し付け下さい。

 併せまして、次回面談のご都合を教えていただければ幸いです。

・・・・・・

 

「じゅうさんまんて」

 私は苦々しく目を細めた。

「さすがというか、あれだな、なんていうか、あれだね」

 だが正直なところ、それが適正額なのか否か、不適正なのであれば妥当な金額というものがいかほどなのか、比較すべき相場として何を参照すればよいのか、皆目わからなかった。

 私はメールの文面を見下ろしながら、手だけを背後のテーブルに伸ばし、ビールの缶を取り上げた。

 冷たい缶が手に触れた――というよりも、明らかにさっきまで持っていた缶より、それは何倍も冷たかった。

 ハッとして顔を振り向けた。

 

 足が居た。

 

 と思った直後、足は私の顔面に蹴りを食らわした。

 私は衝撃と痛みに顔を歪め倒れた。

 足の猛攻撃が始まった。

 私は全身を丸めて、団子虫のような体裁で身を守った。

 そうしながら、さっき手に触れた“冷たい”感触を思い出していた。

 あれは、足だ。

 私の手は、足を掴んだのだ。

 いや、違う。掴んだのではない。

 手は何も掴むことはできなかった。

 ただ、この世ならぬ冷たい“もの”に、私の手は触れたのだ。

 いや、それも違う。何にも、触れていない。

 そう、いちばん近い表現はこうだ、この世ならぬ冷たい“領域”の中に、私の手は入り込んだ。

 そういうことだ。

 あれが、足の体温なのか。

 蹴られながら、私はそう思った。

 足は、私の頭から背中から尻から脚まで、ありとあらゆる部位に痛烈な蹴りを食らわし続けてきた。

 それは執拗で、激しい怒りというものを感じさせた。

 足は、怒っているのだ。

DV幽霊 第9話(全20話)

 熱田氏は別れ際、また電話で連絡をすると言った。

 私は咄嗟に、電話ではなくメールで連絡するようにと依頼した。

 依頼しながら、たとえメールが届いたとしても恐らく返信しないだろうと思った。

 ことによると読みさえもしないかも知れない。

 もう、この人間に会いたくない、声も聞きたくない、と思った。

 恐らく電車を乗り継いで帰ったのだろうが、私は気づくとマンションの自室のドアの前に立っていた。

 昼を大分回っていたが、何も食べたくない、口にしたくなかった。

 無理に食べたとしても、いろいろな意味でそれは私の体に吸収されそうにない気がした。

 着替えもしないまま床に倒れ込み、うつ伏せのまま私は数時間気絶した。

 目を開けると、夕焼けの光がカーテンの隙間から差し込んでいた。

 のろのろと体を起こす。

 しかしそれから何をすればいいのか、まったく頭に浮かばない。

 私は日が暮れるまで、床の上に呆然と座り、窓の向こうから聞こえてくる音を耳に受け止めていた。

「おかあさーん」小学生ぐらいの子供が大声で母親を呼ぶ。

「○○はー?」母親も大声で何か訊いている。

「□□ちゃんとこに行ったー」子供が大声で答える。

「△△だから帰っておいでー」母親は大声で指示を出す。

 車のエンジン音が近づき、遠ざかり、また近づき、遠ざかる。

 部屋の中はだんだん暗くなってゆき、カーテンの隙間からは外部の建物の照明が洩れ始めた。

 喉が、渇いた。

 そのことに気づいたお陰で、私はずい分久しぶりに体を動かした。

 立ち上がったときに、少し眩暈がした。

 キッチンへ向かおうとして、私はぎくりと硬直した。

 

 薄闇に慣れた私の目に、足が映ったからだった。

 

 足は、リビングとキッチンの境のところに、足一本で立っていた。

 私の心臓は早鳴りを始めた。

 汗が噴出し、呼吸が浅くなった。

 足は無表情に、無言のままそこに立っていた。

 何か、言うべきなのだろうか――

 私の頭の中に、どうしてかは分からないが、そんな思いが生まれた。

 今ここで、私は足に向かって何か言葉をかけるべきなのか――

 まったくもって、何故そのようなことを思ったのか皆目分からなかった。

 声をかけるって、家族じゃあるまいし。

 そもそも私はこの足を浄霊しようとしていたのではないのか――

 まさか。

 まさか俺は、足に対して、何か後ろめたさのようなものを感じているとでもいうのか。

 或いは申し訳なさ、というようなものを。

 私は、自分の中に生まれた仮説を否定するため首を振った。まさか。まさかだ。

 それに声をかけるといっても、何と言えばいいのだろう。

「ああ、お帰り」と?

 いや、むしろ

「ああ、ただいま」か?

 待て、もう一度確認するが、足は別に俺の“家族”ではないのだから、そのような言葉をかけるのは妙だ。

「ああ、いたの」辺りか?

「まだいたのか」ぐらい言ってもいいのか?

 その時。

 

 ぺた、と、足が一歩を踏み出した。

 

 私は足を見た。

 いや、ずっと見てはいたが、ぺた、と一歩踏み出した足にハッと注目したのだ。

 改めて見た、とでもいうのか。

 だがその“注目”は、生温かった。

 なぜなら次の瞬間、足が足の甲で私の左頬に蹴りを食らわしたのを、避けきれなかったからだ。

 それは“油断”だったのかも知れない。

 今まで散々腰を蹴られ続けていた相手つまり足だが、にも関わらず私は、そいつに対して注意を怠ってしまったのだ。

 まさか足が、私の顔面を蹴るとは思っていなかったのだ。

 左頬を蹴り飛ばされて――足に“ビンタを食らった”というのは、正しい日本語ではないものだろうか――私は一瞬、自分の身に何が起こったのか理解できずにいた。

 いて。

 え?

 何?

 そんな感じだった。

 足は続けて、今度は私の鼻の下に蹴りを見舞った。

 私はぎゅっと目を瞑り、苦痛に眉をしかめた。

「何す」

 言いかけて開いた目に、足の、足の裏が映った。

 それはその直後、私の視界を真っ暗にふさいだ。

 ふさがれたのは私が再び目を閉じたからでもあり、顔面全体に蹴りを食らった私はバランスを崩して尻餅を突いた。

 声を挙げるいとまもなかった。

 足は、私の両頬に足で往復ビンタを食らわし、私はそれを避けるため床に顔を伏せ這いつくばった。

 足は、今度は私の後頭部を上から思い切り踏んづけてきた。

 私の心の中には、無論恐怖や苦痛もあったが、同時に不思議なものを見る想いも生まれていた。

 重量が、ある。

 そう、今までは腰にしろ背中にしろ、そして今の時点での顔面にしろ、横からの攻撃に限られていた。

 そのため、この足に“重さ”があるなど、意識したことがなかったのだ。

 しかるに今、私の後頭部、襟足、そして背中と、上から踏みつけてくる足、それには、びっくりするほどの“重み”が、感じられる。

 比喩ではなく、物理的な重さだ。

 足は足しかないくせに、一人前の男の大人並みの重量を備えている。

 ずっしりと、重い。

 なんでこいつ、こんなに重いんだ?

 何度も踏みつけられる内、次第に私の意識は薄ぼんやりとぼやけてきていた。

 そんな中で私は、今や恐怖よりも、不可思議さに包まれていたのだ。

 素材か?

 こいつ何で出来てるんだ?

 金属か?

 重金属?

 そんなことを、とりとめもなく思っていた。

 そうしてやがて、完全に私は気絶した。

DV幽霊 第8話(全20話)

 私が呆然と熱田氏を見つめている間、熱田氏は「機嫌好き無表情」とでも表現し得るような顔で、ただ私を見つめ返していた。

 ニヤニヤしてもいなければニコニコもしていない、さりとて怒りや悲嘆の感情を浮かべているわけでもない――

 いつの間に呼んだのか、テーブル脇に来た店員に向かって熱田氏はドリンクバー二人分を注文し、私に何を飲むか訊ねた。

 私は恐らく「コーヒー」と答えたのだろう。

 何故なら熱田氏がその後、私の目の前にコーヒーを運んできて置いたからだ。

 俺は、あの足に、殺される可能性があるってことか――

 私の脳内とその他すべて体内に、その考えが詰まっていた。

 それはやっぱり、蹴り殺される、というやり方でなのか――

 たとえ痛みはそれほどではないとしても、やはり同部位に何度も繰り返し攻撃を受け続けると、ダメージが蓄積してやがては致命的な状態になるということなのか――

 あいつは、俺を殺すのが目的なのか?

 俺に対して、殺意を持っているのか?

 脳内をぐるぐる回る、という表現がまさにぴったりだったが、その他すべて体内までをも、その考えはぐるぐる回っていた。

 懐いてさえ、いるものかと思っていた――

 私の、脳内かまたはどこか体内の片隅に、そんな想いがぽつねんと生まれていた。

 俺の、勘違いだったのかな――

 あいつは俺に懐くどころか、殺意さえ持って、それでどすどす蹴ってきていたんだ。

 俺を、殺そうとして。

「まあ、飲まないの?」

 熱田氏の笑いを含んだ声に、私はハッと現実に連れ戻された。

「冷めるわよ」

 熱田氏は自分のコーヒーカップを顎の下に持っていきつつ、私のカップを顎で示した。

 私はカップを手に取り、ブラックコーヒーを一口すすった。

 その様子を熱田氏は、やはり“機嫌好き無表情”で、無言のまま見ていた。

 私が、ほとんど減っていないコーヒーのカップを皿の上に置くと、熱田氏も同じ所作をし、それから両袖をまくり始めた。

「じゃあ、そろそろ始めるわね」

「え」

 私は顔を上げた。

 熱田氏の、白く逞しい両腕が露になっていた。

「熱田スペシウムっていうの」

 熱田氏は言って、超ピンク色の唇を左右に広げニヤリと笑った。

 私は言葉もなく、眉を持ち上げて「何ですかそれ?」という質問の代わりにした。

「つまり私独自の、霊視のやり方でね」

 そう言いながら熱田氏は、右腕を顔の前に立て、その肘の辺りに左手を横向きの手刀の型にして添える、というポーズを取った。

「こうやって、ここから分泌するの。熱田スペシウムを」

 

 ぞわっ、とした。

 

 ぞわっ、としか、言えない感じだった。

 背中から、その他全身に、一瞬のうちに鳥肌が立つのがわかった。

 目の前に、よく実った大根のような、熱田氏のむき出しの前腕がある。

 産毛がうっすらと見てとれる。

 

「分泌するの」

 

 熱田氏の周波数高めの声が、余韻として響き渡った。

「分泌」

 何が。

 いったい、何が出てくるのか。

 その、逞しい前腕から、何が。

「分泌」って。

 いったい、どのように。

「わあああ」と叫んで立ち上がりたい衝動に駆られた。

 だが私は、ぎゅっと目を瞑って耐えた。

 理性が、まだ私の体内に――脳内はわからないが――残っていたのだ。

 いわゆる「嫌な汗」がじっとりと、それこそまさに“分泌”された。

 それで余計に、私の中の嫌悪感が強まった。

「分泌」って、つまりこの汗のように、この女は霊視するための“何か”を、その前腕から放出させるのか。

 見えない何かを。

 私に向かって。

 じんわり、じわじわと。

 説明のつかない気持ち悪さが、私を完全に包み込んだ。

 私は、息を喘がせた。

 やめろ。

「や、め」

 声にならない抵抗の言葉が、唇の間から洩れた。

「頑張って」

 熱田氏は表情を変えることなく、私にそう告げた。

「負けないで。少しの間だから」

 

 汚らわしい!

 

 私の中で、そういう言葉がはっきりと形どられた。

 そうだ。

 私は「分泌」という言葉から、いや、熱田氏の行動から、いや、熱田氏その人そのものから、何かしら汚らわしい、忌避すべきものを、その時強く感じていたのだ。

「ものすごい抵抗ね」

 熱田氏はほんの少し目を細めた。

 ポーズは変わらない。

 脂汗を浮かべ息も絶え絶えの私の視野の隅に、店員の少女が驚いたように目を見開いてこっちを見ている姿が映った。少し離れたテーブルの上の食器を片付けていて、私たちの様子に気づいたようだ。

 彼女はそばを通りかかった、先輩らしき他の店員の少女に声をかけ、一瞬だけ私たちの方を指差して何事か囁いた。

 先輩店員もちらりとこっちを見たが、ああ、という形に口を開き、やはり短く何事か説明した。

 後輩店員の方は、目を見開いたままだったが納得したように、同じくああ、という形に口を開き、そして

「熱田さん」

と、呟いた――声は届かなかったが。

 そうか。

 私は朦朧とした意識の中で、理解した。

 ここは、このファミレスは、熱田氏の「行きつけの場所」なのだ。

 彼女はいつもここで“依頼者”と面談しているのだ。

 そして恐らくいつもここで、今日と同じように、熱田スペシウム光線を“分泌”しているのだ。

 霊視のために。

 つまり彼女はこの店の「有名人」なのだろう。

 ああ。

 ぜってえ、来ねえ。

 彼女となんか。

 

「ここ、いいだろ。俺さ、前ここで霊視してもらったんだよ。熱田スペシウム分泌する人に」

 

 死んでも来るか。

 やがて熱田氏は、両腕を下ろした。

 小さな目は、じっと私を見たままだ。

 彼女の腕が下りてすぐ、私も何かから“解放”された。

 そうとしか、表現できない気分だった。

 何かの束縛、或いは呪縛から、解き放たれた感じが強くした。

「なかなか、手強いわね」熱田氏は小さく首を振り、彼女の声帯の発しうる最低域の声でそう言った。「はっきりした正体はわからなかったけど……恐らく“哺乳霊”ね」

「――」ホニュウレイ? 哺乳類の、霊?

 私は呆然と熱田氏を眺めることしかできなかった。

 久しぶりに酸素呼吸をしているという実感を抱いていた。

「哺乳類の霊よ」

 熱田氏はニコリと笑った。

「略して哺乳霊」

 何故略す必要があるのか。

 だがそれも、どうでもよかった。

「だけど、動物霊なのか人間の霊なのかまではわからなかった」

 熱田氏はコーヒーカップを持ち上げすすった。

 私はげんなりした。

 今は、自分自身でも何も口にしたくないし、人が何かを口にするところも見たくなかった。

 外の、新鮮な空気を吸いたかった。

「ま、今日はこれくらいにしときましょう。疲れた?」

 熱田氏は立ち上がり、伝票を手に取った。

「あ、私が払います」

 私は反射的に伝票に手を伸ばした。

 しかし、伝票の方も、熱田氏の方も、見ていなかった。

 手だけが、反射的に伸びたのだ。

 職業上の癖のようなものだろう。

「いいわよ、経費で落ちるから」

 熱田氏はひらりと私の手をかわし、さっさと会計場へ向かった。

 経費って――

 会議費で? まさか接待交際費じゃないですよね? ドリンクバー二人分なんて、五千円以下もいいとこなんだから損金算入のためには

 私の脳は、自分の現状から目を背けることに必死だったのかも知れない。

 そして体は、ただちに扉を抜けて外へ出、そしてただちに走り出し、熱田氏から永久に離れたいという欲求に、必死で抗っていた。

DV幽霊 第7話(全20話)

 結論から言うと、そのサイトの主への連絡先は、見つからなかった。
 だがそのサイトが相互リンクしている他のサイトの中に、主が運営(というのか)している浄霊施設(というのか)への連絡先メールアドレスの表記が見つかった。
 私はそのアドレスに、相談メールを送った。
 文面はこうだ。
「数ヶ月前から私の腰を蹴りつづける足の霊に悩まされています。この霊を浄霊していただけないかと思い相談いたします。よろしくお願いします。連絡をお待ちしております」
 送信後も、足は私を蹴りつづけていたが、私は微笑みさえ浮かべて床に就いた。
 これで、恐らく解決だ。
 専門家の力で、自分は救われるだろう。
 また元の、平和な日常に戻れるんだ。
 私は、腰を蹴られ始めてから初めて、安堵の眠りといっていいものを味わった。

 返事は翌日早速届いた。
 文面はこうだ。
「この度は浄霊のご依頼有難う御座います。本来ならば教主自らがお力になるべく馳せ参じたいところでありますが、何分浄霊の需要は大変に高く、すぐに赴く事かなわぬ事情につき、先づは徒弟の者が詳しいお話を伺い、危急の事態でありましょう故可能であればそのまま浄霊を施させて頂きたく、どうぞ宜しくご理解下さいませ」
 えらく堅苦しいが、教主とは恐らく高齢の人なのだろうと察して私は「理解」することにした。
 返信のメールには、電話番号がしたためられてあった。
 私は携帯を握り締め、そこに電話した。
「はい、文殊の里でございます」
 電話に出たのは、若い男だった。
 私は名を名乗り、メールで浄霊を依頼した者であることを告げた。
「ああ。はい」男はあまり抑揚のない声で、だが私の名前は聞き及んでいるらしき雰囲気で返事をし「今担当と代わりますんで、ちょっとお待ち……」ください、がもごもごとして聞き取れなかったが、とにかく取り次いでくれるようだった。
 それから三分、私は『乙女の祈り』を聴きつつ待たされた。
「はい。もしもし」
 突如、大音響といっても過言ではない女性の声が『乙女の祈り』を撃ち破って私の鼓膜を攻撃した。私は思わず携帯を耳から離した。
「もしもし? もしもーし」
 女性の声は更に高デシベルとなり、私は顔を苦痛に歪めずにいられなかった。
 足に蹴られている時でさえ、こんなに顔を歪めることは、最近ではなかった。
「すいません」
 私は携帯に口だけ近づけて声を発した。
「浄霊を依頼した者です」
「はーい。こんにちは」
 女性の声は素早く機嫌の良いものとなり、元気良く私に挨拶した。
「私がこのたび担当させていただきます、熱田と申します」
「あ、はい。よろしくお願いし」
「足に蹴られてるんだって?」
 女性は私の言葉尻を蹴り、そしていきなりタメ口に切り替えて話し始めた。
「あ、はい」
「足だけ?」
「あ」
「つまり体の他の部分、胴体とか頭とか腕とか、そういう他の部位というものは、出てこないのね?」
「ええ、足」
「それは一般的には、動物の霊、それも人間が死んで、動物になって、その霊がこの世に未練を残しているものだって言われているわ」
「ああ、どうぶ」
「けれど動物の霊となると、ちょっと厄介な面もあるのよ。一度あなたご自身の人となりを、実際に見てみないとわからないわ。直接お会いできる日がありますか」
「えと」
 私は気圧されつつも、熱田と名乗る女性と面談の約束を取り付けた。
 電話を切り、携帯をテーブルに置いた後も、左耳が戦闘体勢を取っているのが判った。
 私はため息をつきながら、そっと耳をさすった。
 熱田氏の声は、中年層――少なくとも四十代ぐらいのものと察せられた。

 約束の場所は、なんとファミリーレストランだった。
 土曜日、午前十時。
 決して、客が少ないことはないだろう。
 いや、仮に少なかったとしても、むしろそっちの方が問題かも知れない。
 熱田氏はそこで、そんな場所で、あの声で、あのデシベルレベルで、語るのだろうか。
 幽霊について。
 もうひとつ、懸念材料があった。
 今私はこの電話を、浄霊依頼の電話を、自室からかけた。
 夜七時、会社から定時で急ぎ帰り、食事も取らずメール確認し、直後にかけたのだ。
 今は、七時半。
 その間、足が、まったく姿を見せなかったのだ。
 うんともすんとも、ごつともばきとも、私の腰は鳴らなかった。
 足は、何処にいるのか。
 何処かで、私の電話の内容を、聞いていたのだろうか。
 奴には、私の話していたことが、理解できたのだろうか。
 それで、姿を見せないのか。
 奴は、足は今、何を思っているのか。
 嫌な予感が、した。

 翌日も、その翌日も、足は現れてこなかった。
 だが私は、それを決して「安寧の日々」と称する気にはなれなかった。
 そう、私の脳裏によぎる名は、
「嵐の前の静けさ」
というものに他ならなかった。
 指定されたファミリーレストランに着くと、私は指定された通り窓際の席を希望した。
 電車を乗り継ぎ、徒歩で十五分ほどかかって辿り着いたその店は、海に面した立地で、今日は天気もよく、窓から臨む景色は非常に心地よい、美しいものだった。
 海面に踊る光の粒を眺めながら、私は半分うっとりと現実を忘れていた。
 こんないい店に来るんなら、どうせなら、恋人と二人で来るのがいいよなあ……
 恋人か……
 そういや、あの子元気にしてるのかな……
 別れたの、いつだっけ……
 もう、二年近くなるのかな……
 もっとか……
 もう、新しい彼氏とか、いるんだろうなあ……
 携帯、変えたかなあ……
 思い切って、連絡してみるかな……
 そう、この店に、誘い出して……
 いい店を見つけたから、君にもぜひ教えたくなって、とかさ……
 この景色を、君にもぜひ見せたくて、とかさ……
 そうだ、ここなら夜景も、きっと素敵だろうな……
 月とか、星とか眺めながらさ……
 街灯りにはない、素朴な煌きがなんともいえず二人を

「こんにちはあ」

 突如として大音響が、私の夢想を瞬時に打ち砕いた。
 ハッとして見上げると、恰幅の好い女性がそこにたちはだかっていた。
 最初に目に飛び込んできたのは、その女性の唇の、びっくりするほど不透明なピンク色だった。
「大分、お待たせしてしまったかしら?」
 ニコニコと満面に笑みを浮かべながら、女性は私の真向かいに座り、名刺を差し出してきた。
 私も慌てて、財布から名刺を取り出し、仕事の時よりも遥かにまごつきつつ、女性のものと交換した。
「それで、早速まず訊きたいんだけど」
 簡単な自己紹介の後、女性――熱田氏――は急くように切り出した。
 挨拶の時と違い、通常の人間の会話レベルの音響だった。
 もしかすると、挨拶だけは元気良く、というのがこの浄霊団体の主義であるのかも知れない――
「あなた、身寄りはあるの?」
「はい?」
 私は思わず、熱田氏の小さく窪んだ瞳を真正面から見返して訊き返した。
「身寄り、ですか?」
「そう。ご家族」
「あ、はい、故郷に両親が」
「そう」
 熱田氏は、ニッコリと笑みを浮かべた。
「ならよかった」
「え?」
「万一の時にね。一応」
「――万一って?」
「つまり、万一あなたが孤独死した時、遺体を引き取る人がいるかどうかっていうのを確認しておきたかったの」
 熱田氏は、私の疑問に答えて言った。
「――」
 私はただ、熱田氏の小さく窪んだ瞳を見つめ、言葉を失っていた。
 そう。
 私は、懸念していた。
 ここに来る前、電話で面談の予約を取り付けた後、ふと不安に思ったのだ。
 それは、熱田氏が、電話で聞いたあの大音響で、周りに客のいる店内において、幽霊の話をぺらぺら喋りまくるのではないかという、不安だった。
 そんなことをされては、衆目を集めること間違いない。
 だが不安は、的中しなかった。
 熱田氏は、彼女は決して超弩級デシベルレベルで霊のことなど喋ったりはしなかった。