葵むらさき小説ブログ

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DV幽霊 第9話(全20話)

 熱田氏は別れ際、また電話で連絡をすると言った。

 私は咄嗟に、電話ではなくメールで連絡するようにと依頼した。

 依頼しながら、たとえメールが届いたとしても恐らく返信しないだろうと思った。

 ことによると読みさえもしないかも知れない。

 もう、この人間に会いたくない、声も聞きたくない、と思った。

 恐らく電車を乗り継いで帰ったのだろうが、私は気づくとマンションの自室のドアの前に立っていた。

 昼を大分回っていたが、何も食べたくない、口にしたくなかった。

 無理に食べたとしても、いろいろな意味でそれは私の体に吸収されそうにない気がした。

 着替えもしないまま床に倒れ込み、うつ伏せのまま私は数時間気絶した。

 目を開けると、夕焼けの光がカーテンの隙間から差し込んでいた。

 のろのろと体を起こす。

 しかしそれから何をすればいいのか、まったく頭に浮かばない。

 私は日が暮れるまで、床の上に呆然と座り、窓の向こうから聞こえてくる音を耳に受け止めていた。

「おかあさーん」小学生ぐらいの子供が大声で母親を呼ぶ。

「○○はー?」母親も大声で何か訊いている。

「□□ちゃんとこに行ったー」子供が大声で答える。

「△△だから帰っておいでー」母親は大声で指示を出す。

 車のエンジン音が近づき、遠ざかり、また近づき、遠ざかる。

 部屋の中はだんだん暗くなってゆき、カーテンの隙間からは外部の建物の照明が洩れ始めた。

 喉が、渇いた。

 そのことに気づいたお陰で、私はずい分久しぶりに体を動かした。

 立ち上がったときに、少し眩暈がした。

 キッチンへ向かおうとして、私はぎくりと硬直した。

 

 薄闇に慣れた私の目に、足が映ったからだった。

 

 足は、リビングとキッチンの境のところに、足一本で立っていた。

 私の心臓は早鳴りを始めた。

 汗が噴出し、呼吸が浅くなった。

 足は無表情に、無言のままそこに立っていた。

 何か、言うべきなのだろうか――

 私の頭の中に、どうしてかは分からないが、そんな思いが生まれた。

 今ここで、私は足に向かって何か言葉をかけるべきなのか――

 まったくもって、何故そのようなことを思ったのか皆目分からなかった。

 声をかけるって、家族じゃあるまいし。

 そもそも私はこの足を浄霊しようとしていたのではないのか――

 まさか。

 まさか俺は、足に対して、何か後ろめたさのようなものを感じているとでもいうのか。

 或いは申し訳なさ、というようなものを。

 私は、自分の中に生まれた仮説を否定するため首を振った。まさか。まさかだ。

 それに声をかけるといっても、何と言えばいいのだろう。

「ああ、お帰り」と?

 いや、むしろ

「ああ、ただいま」か?

 待て、もう一度確認するが、足は別に俺の“家族”ではないのだから、そのような言葉をかけるのは妙だ。

「ああ、いたの」辺りか?

「まだいたのか」ぐらい言ってもいいのか?

 その時。

 

 ぺた、と、足が一歩を踏み出した。

 

 私は足を見た。

 いや、ずっと見てはいたが、ぺた、と一歩踏み出した足にハッと注目したのだ。

 改めて見た、とでもいうのか。

 だがその“注目”は、生温かった。

 なぜなら次の瞬間、足が足の甲で私の左頬に蹴りを食らわしたのを、避けきれなかったからだ。

 それは“油断”だったのかも知れない。

 今まで散々腰を蹴られ続けていた相手つまり足だが、にも関わらず私は、そいつに対して注意を怠ってしまったのだ。

 まさか足が、私の顔面を蹴るとは思っていなかったのだ。

 左頬を蹴り飛ばされて――足に“ビンタを食らった”というのは、正しい日本語ではないものだろうか――私は一瞬、自分の身に何が起こったのか理解できずにいた。

 いて。

 え?

 何?

 そんな感じだった。

 足は続けて、今度は私の鼻の下に蹴りを見舞った。

 私はぎゅっと目を瞑り、苦痛に眉をしかめた。

「何す」

 言いかけて開いた目に、足の、足の裏が映った。

 それはその直後、私の視界を真っ暗にふさいだ。

 ふさがれたのは私が再び目を閉じたからでもあり、顔面全体に蹴りを食らった私はバランスを崩して尻餅を突いた。

 声を挙げるいとまもなかった。

 足は、私の両頬に足で往復ビンタを食らわし、私はそれを避けるため床に顔を伏せ這いつくばった。

 足は、今度は私の後頭部を上から思い切り踏んづけてきた。

 私の心の中には、無論恐怖や苦痛もあったが、同時に不思議なものを見る想いも生まれていた。

 重量が、ある。

 そう、今までは腰にしろ背中にしろ、そして今の時点での顔面にしろ、横からの攻撃に限られていた。

 そのため、この足に“重さ”があるなど、意識したことがなかったのだ。

 しかるに今、私の後頭部、襟足、そして背中と、上から踏みつけてくる足、それには、びっくりするほどの“重み”が、感じられる。

 比喩ではなく、物理的な重さだ。

 足は足しかないくせに、一人前の男の大人並みの重量を備えている。

 ずっしりと、重い。

 なんでこいつ、こんなに重いんだ?

 何度も踏みつけられる内、次第に私の意識は薄ぼんやりとぼやけてきていた。

 そんな中で私は、今や恐怖よりも、不可思議さに包まれていたのだ。

 素材か?

 こいつ何で出来てるんだ?

 金属か?

 重金属?

 そんなことを、とりとめもなく思っていた。

 そうしてやがて、完全に私は気絶した。